この体系には一切に対して唯一の原理がある。
傷ついた体を修復する再生医療の分野で、日本発の研究成果が相次ぐ。中でも全身のあらゆる細胞に成長できる万能細胞の分野が注目されている。「自分の考えを一点に集中しよう」と努めている。おまけに彼は、自分で自分を相手に喋る。彼は論理においても感情においても、しょっちゅう自家撞着をしている。そこには思想と心情の粗野な面が現れたかと思うと深遠な感情が窺われる。彼の幾多の追憶は遂に彼を真実へ導いてくる。真実は必然的に彼の理性と心情を高めていく。闇い自然根底のうちでも永遠なる明澄のうちでも、統べているものは同じ一つの存在者である。諸物の固硬と離隔とをまた統一と柔和とを生ぜしめるものは同じ一つの存在者、すなわち善においては愛の意志を以て、悪においては怒りの意志を以て支配しているその同じ存在者である。精神としての神のみが両原理の絶対的同一性であるが、しかもそれも両者が神の人格性に服従していることによって、またその限りである。人間のみが神の内にあり、そしてまさにこの神−内−存在によって自由であり得る。彼のみが中心的存在者であり、この故にまた中心のうちにとどまるべきである。人間のうちに万物が創造され、また神は人間を通してのみ自然をも受け入れて自らと結び付けるのである。人間は新しい盟約の初まりであり、彼自身は神と結び付けられているから、彼を仲介者として神が最後の分開の自然をも受け入れて自己自らに化すのである。それ故、人間は自然の救済者であり、自然のすべての範型はこの救済者を目標とする。人間のうちに成就される言葉は、自然のうちでは、暗い予言的な言葉として存する。この立場からのみ理解できるものとなるところの、諸々の原因の普遍的目的性もここよりである。理性がそのうちに実際に自己自身を認識するような体系は、精神と心情とのすべての要求、最も道徳的な感情と最も厳しい悟性とのすべての要求を合一させねばならない。すべて神来は或る特定の仕方で発現する。それで弁証法的な技術衝動を通して発現する仕方もある。真に学術的な神来がこれである。極度の分開と分裂からしかも勝利者として出現するという、まさにこのことが真理の最高の凱旋なのである。神秘主義者達によれば神のうちには第一受動者或いは元初的智慧があって、その内では万物が相寄りしかも相分かれ、一つでありながらしかも各自がそれぞれの仕方において自由なのであるが、理性は人間の内でそれと同じものである。心理の尺度、共通普遍の場であり、根源的智慧が受け取られる静かな場所である。その根源的智慧は、悟性が原像として仰ぎ見つつそれに則って形成を行うべきものなのである。哲学〔愛智〕もその名を、一方では普遍的に神来を与える原理としての愛から、他方ではその本来の目標であるこの根源的智慧から得ているのである。彼は、一切の対立は一つの根元に帰する、感性と悟性の対立もそうである、これは言語において明らかである、言語は理性の機関であり、哲学全体は一種の文法である、と考えた。我意の激発が起こるのは、人間のうちなる愛が自己を実現すべき素材すなわち対立者を見出さんがため、我性がその絶縁（特殊者たる我性が普遍意志から自らを切り離すこと『哲学と宗教』によく説かれた「堕落」である）において悪の原理である限り、根底は悪の可能的原理を激発する、彼の諸性質に従って。心胸、心臓、は一体系の神の開けた点、そこから愛による創造の活動が発生する中心と考えられた。自由創造の行われる中心である。これに対して、その器官となり周辺となるものが諸々の性質である。神は悪を許容する。神の意志のうちに先行する意志と帰結する意志との二段を分けた。前者は、すべての特殊な善に向う意志である。後者は、すべての特殊な先行する意志の集合から一つの綜合的方向を決定する意志である。あたかも一つの物体に種々なる方向の力が働けば、そこから唯一の綜合的な運動が生ずるに等しい。故に神は先ず先行善を欲し、次に帰結的に最高善を欲する。同一哲学においても最高の統一は最高の対立の統一であった。自然哲学においても自然の大生命或いは世界霊の発展の最高の段階は感覚、叡智、意志であった。自らを感知する。成就され現実的となる可能性をもてるものが残る所なく実現される。現実的なるものの世界において空いている所がすべて満される。根底（神のうちの自然）を、真に神そのものを結びつける仲介者が人間である。人間は根底のうちよりそれの中心として生れきて、精神において根底の上に出で、これを自己の周辺として支配しつつ神に接するものである。故に根底を質料とする神の創造は人間精神の内にのみ行われる。この次に自然と人間創造以前及び以後の神との結合に旧約と新約の意味を認め、人間一般にキリストの有した意味が与えられている。背が高すぎて腰痛い、脚伸び延びすぎてズキズキする。神学の秘密は人間学である。近世の課題は、神の現実化と人間化、神学の人間学への転化と解消であった。思弁哲学の本質は、合理化され実現され現在化された神の本質である。思弁哲学は真の首尾一貫した理性的な神学である。ある存在がそのうちで満足を感じているものは、それの対象的存在にほかならない。詩人に満足を感じる人は彼自身が詩人的な性質の人であり、哲学者に満足を感じる人は彼自身が哲学者的な性質の人である。理性は無限な本質のうちでのみ満足を感じる。初めて我々に理性の本質が開示される。神は必然的な存在である。神のこの必然性は、神が一つの理性的知性的存在であることに基づく。一般に形而上学あるいは本体論的神学の諸規定は、それらが心理学またはむしろ人間学の諸規定に還元されるとき初めて真理と実在性を持つように、古い形而上学または本体論的神学における神的存在の必然性もまた、神を知性を持つ存在として心理学的または人間学的に規定するとき、初めて意味と意義、真理と実在性を持つ。必然的な存在は、必然的に思考さるべき絶対に肯定さるべき存在である。この必然的な存在のうちで理性はただ自分自身の必然性と実在性を証明し示す。神は無制約的普遍的な永遠の無時間的な存在である。理性の法則の特性であり理性の特性でもある。普遍的な無制約的な何時でも何処でも妥当する理性的真理、理性の本質の表現である。神は独立的自立的存在であって、自分自身から自分自身によってあるものである。思考する存在は自分自身に関係し自分自身の対象であり自分の本質を自分自身の内に持ち自分自身によって現にそれがあるところのものである。有神論において客体であるものは思弁哲学においては主体である。前者においてただ思考され表象されている理性の本質は、後者においては理性自身の思考する本質である。神が人間の客体から主体に人間の思考する自我になる内的必然性、神は人間の対象、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質である。最高の本質を対象とするものは、
