そのもの俺の中心核枠の16歳丹田から軌跡道程が生まれ始まり広がっている。
その発生の起源根源にまで遡る突き進む。感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じ、肉体的表情の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。人格は祖先以来幾代かの人格の複合体である。過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である、その裡面には永遠の過去より永遠の未来に亙る霊的進化の力が働いている。この世界も濃い深い神秘の色を以ってえどられた、詩人の空想なるものも実在其物であった。万象の奥底に見た精神の働きは一々人格的歴史を有った心霊の活動である。有機体の諸能力が一様より多様に進み、不統一より統一に進む。何事も運命と諦めるだけ、運命は外からも内からも働く。我々の過失の背後には不可思議の力が支配している、後悔の念が起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。自己棄却、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く自ら救う。我々は内に省みてなお一層深く、直接な自由の世界、流るる時の世界、創造的進化の世界である。我々の自己とは作用の無限なる連続の統一点、直接経験は無限の流動であるが流動を或る一の立場から見たとき種々の世界が現れる。真に深く大なる内面的我の自覚に達した。意識の本性は運動である。思惟は意識の一種であり、純粋思惟は生産自身が所産であるというように、それ自身によって内容を作り発展するという意味において動的なのである。連続原理によってその元に還って進み行く円環的運動である。その始まる所にまた終がある。意志においては意識の中心たる自己が意識せられる。純粋意志においては自己の焦点は無限の距離にある。個人は無限の問題においてその焦点を有する。純粋感情即ち美的意識はこれに反し自己其者を目的とする。我々が連続原理によって元に還り行くのは、その動的な根本的全体に近付くのである。変ずる現象の結合点たる物は変化し得る。複雑なるものの統一とは、要素の結合を定める方式とか法則という如きものに見出せる。一つの要素の変化は他のすべての要素の相応的変化によって全体の様式を維持することができる。宇宙の万物は無限なる変化の中に一の統一を形成する。実在と知識との関係については全体と部分との関係の如く考えている。意識するということは対象即ち意味を己自身の中に含むということである。全体である己の中に一切が含まれる。我々の客観的知識は純粋統覚の綜合によって成立する、自然科学の世界は純我の綜合作用によって成立する、純我が自然の立法者、自然界は理性によって成立する。客観は主観に依存する。先験的主観、価値意識である。外界の権威からも自然法の束縛からも脱し、自然科学的世界の成立の基に還って、そこに深き大なる我の自由を見出した。自然界成立以前の理性的我の自由であった。経験的世界は純我の綜合によって成立することを明にした。外から来た感覚的内容が先ず空間時間と言う直覚の形式によって統一せられて経験的直覚即ち知覚となり、更にこれが範疇という理解力の形式によって組織せられて知識即ち経験となる。我はそれ自身にて内容を生ずる創造的作用である。自覚においては考えるものと考えられるものとが一であって、即ち主観と客観とが合一する、これを知的直観という。自覚においては主客合一が直覚せられる。世界は我の発展である。実在は精神と自然との同一であって、精神と自然とはその両極である。世界は理性の弁証法的発展ということになった。学問と詩との合一、学問の根柢にも理性の根柢にも理性の無限があり、この両者の統一を生命の深き拝殿において見出すのが宗教的直観である。宇宙の根柢を見た。情は光が万物を照してその色を現すが如くに万物を照す。長き旅においてすべての現世的なものを体験して後、此の如き情の故郷に還った。真善美の価値はその根柢において統一を見出された。思惟其者が生産的であって、時空の形式は思惟自身から必然的に発展する。多は一を要求し一は多を要求す。知識の発展は思惟がその元に還るのである。不純なる内容を純化する。直観より分析に行く。連続する意識状態の多数とこれを結合する統一とに分れ、持続とはこの二つの者の綜合ということになる。持続を直感によって内から見れば或一つの緊張の感である。我々はこれによって容易に持続の種々の色合を理会することができるのみならず、我々はその緊張を弛め、これを短くしてその極何らの性質なき純粋の繰り返しになることもでき、また緊張を非常に強くして、その極、永久の念に達することもできる。直観より出でて分析に入れば容易に諸種の難問を解決し得る。意識の変化は連続的進行であり、赤裸々たる経験の真相である、自己の本体である、これを純粋持続または内面的持続と名付ける。我々の内面生活は内面的進歩発展、即ち創造的発展である。我々の過去が自ら発展して来った現在である。我々の未来はまたこの現在が自ら発展して行く未来である。我々の背後にはいつでも我々の過去が圧迫し来る。我々はいつでも我々の歴史を負うて立っているのである。我々の独創性は実に此処にある。過去は自動的に己を保存し、影のごとく我々の踵に随う。一瞬一瞬が創造的である。純粋持続は連続的創造であり、総ての過去を縦線的に背後に列して現在という一点に集中する処に創造がある。精神の非常に集中した処に創造がある。純粋持続を縦線的に緊張しきったる所が我々の生命であり、自由行為であり、かねて実在の真面目である。然るに一度この緊張を弛めんか、我々は活溌溌地なる真剣の世界から一転して夢の世界に入る。ここにおいて我々の自己は忽ち拡散し、過去の歴史は個々独立せる無数の記憶の並列的関係に配置せられ、我々のパーソナリティは空間的関係の中に陥ってしまう。こういう風に相連続せる縦線的経験を個々独立せる横線的即ち空間的経験と並列し、外より相互の関係を見たるものが知識であって、かくして成立したものが即ち物質界である、この両者は同一の根源を有ったものであるという。純粋持続には緊張と弛緩との両方向があってこの持続が己を緊張して突進する処に我々の生命がある、これが即ち宇宙的発展の形式となる。生物とは持続が既にこの弛緩の平面を破って己を発展したもの、生命の原始的衝動が一様的なる物質を破って個性を樹立したものである。生命は恰も一つの中心から四方に氾濫する大波の如きものである。創造的天才は固定せる独断や因襲の皮を破って純粋持続の自由の天地を濶歩する。
