その巨大な身体を目一杯に伸ばし、全身の全部の力を全能力を完全に解放する。
もし一者と万物とが同一であり、いかなる区別も錯覚であるとすれば、霊魂は神であり神は霊魂であるということになる。人格は普遍的存在であるということを認める。神秘体験がすべての行為を究極的には幻とみなす超時間的瞬間の達成を意味する？『ギーター』が神のもとにあるこの世界の実在性を主張し、この世での活動の重要性を説くものであること、そして神との合一が、その神秘主義の極致であること、信者は「あらゆるものの中に神を見、神の中にあらゆるものを見る」遂には神が真に何者であるかを知り、神の中に速やかに入り、神の恩寵によりすべての行為を行って、最後には永遠の境地に到達する。『バガヴァッド・ギーター』は、ウパニシャッド、サーンキヤ・ヨーガ派の哲学、仏教から多様な思想を受け継いでおり、一神教を強烈な基調にして、多くの要素を一つに織り合わせた驚くべき合作である。一元論者に似て『ギーター』はあたかも風が宇宙に遍満するように、万物は至高の存在の中にあると見なす。神は万物とは比較を絶して偉大である。見よ、私の神的ヨーガを。私の本性は万物を支え実現する。神クリシュナは存在のあらゆる種類のうちの第一のものとして語られる。すなわちクリシュナは、万物の霊魂、すべての光の中の太陽、万山の中のヒマラヤ、すべての湖水のうちの海等々である。超越的かつ畏怖すべき情景と共に更なる展開がみられる。この部分はあらゆる宗教文学のうちでも最も詳細に神を描いたものといえよう。そこでは、「千の太陽の輝き」の下に、本初の神でありかつ永遠の精神にしてブラフマン自身より偉大である、最高の主の身体の中にすべての神々が現れる。恩寵と愛へ導くものは、内在というよりも超越である。神に対する人間の愛、人間に対する神の愛が強調されている。すべての欲望と我執を離れた人は、すべての一元論者の目標であるブラフマンとなるのに相応しいと説かれる。『ギーター』の有神論は、ブラフマンとなることは完成であるが、完全にブラフマンと一体化した人間は、更に神の至高の愛を獲得し、神と完全に合一するに至る。信愛により私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。このような神との合一は神の恩寵の賜であり、その合一は人間に己の任務を達成する力を与え、執着からの解放をもたらし、神と共なる永遠至福の境地に至らせる。行為と信心の組み合わせが『ギーター』の特徴である。その至高のメッセージの最後には、すべての中の究極の奥義として、魂の唯一の避難所であり、またそれとの交わりは無上の至福である神によって人間は「こよなく愛しい」ものと告げられる。全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。彼の恩寵により、貴方は最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。『ギーター』は神秘主義的であると同時に実用的な第一級の書物、神と人間、主体と客体のある種の区別を暗示しつつ、神との合一を教える。神は全き唯一の神であり、現世において己の義務を遂行することを強く訴え、業をなし神に専心して行動し神に向かうことであるとする。クリシュナは、すべての神々と中性的ブラフマンにまさる真の意味での宇宙の創造者にして破壊者であるが、しばしば人間の姿でこの世に現れた。ラーマーヌジャは、個我は永遠であるとしているが、それはまた神と同質であるとも考えていた。しばしば神をブラフマンよりもヴィシュヌとして語り、世界展開の初めにすべての存在がヴィシュヌの身体から出現したという古い神話の記述によって、永遠の個我は神の身体の一部を構成すると考える。個我は世界において働いている神の真実の活動に助けられて各々の身体に入る。世界展開の最後には個我は再び神の身体に吸収される。神は万物の心の中に宿るという『ギーター』の本文を、ラーマーヌジャジャは、神が万物の霊魂であるから、個我は神の体を構成すると解釈した。万物の霊魂である神は、万物の原初、中央、終りであり、存在の起源、持続、消滅の原因である。「無限の憐れみの大海、道徳的卓越、慈しみ、寛大、最上のもの、全世界の避難所」である神の愛を通して、人間は神のみが人間のすべての努力の真の目標であることを自覚する。愛は人間と神との関係の鍵である。神にとって人間は自分の体のように必要なものである。人間は、愛の交わりのために神から必要とされる。彼の不思議な誕生、子供時代、青年期、成人してからの数々の武勇伝などが語られるが、これらは彼の神的遊戯（リーラー）の一部をなすものである。アガペーがエロスに、神秘主義が官能的合一として描かれている。神と人との愛を表す。月と夜の百合が愛に結ばれ至るところにクリシュナがいる。信心深い信仰と同一視による神秘的合一について多くの感情的表現を行った。彼は若い頃にはトランス状態に陥り卒倒することがあり、初めは精神障害と思われていたが、やがて神への専心として受け入れられるようになった。愛を天国で神を見る至福直観を求める魂の憧憬を象徴として用いた。神的存在を捉え最終的にはその中へ溶け込む。自分自身が神の中へ吸収されてしまうまで、神的存在と同一化されることを求めた。私は貴方となる。我が身を貴方に捧げるならば、見よ、いずこにも存在するのは貴方である。神の恩寵を受けた自らの経験、神の唯一永遠性、恩寵による信者への神の啓示が約束される。「我々がクリシュナと呼んでいる者がもし神であったのならば、なぜ彼は死に屈したのか」神学への一つの重要な問いである。私は主の聖なる御名を繰り返す。こうして魂は一歩一歩、花婿にいたる階段を昇り行き、彼と一つになる。自己を破壊することによって得られる合一の道および個我の内なる神の発見について歌った。助けを求めて神のもとへ来る者に対して神の愛を説く。人間の神への愛は、そのこと自体が神の恵みである。神秘的合一に導くものはより高次の愛である。最初の段階は神に関する知識、第二段階はブラフマンの神的本質との同一化、最終段階は至高の神との神秘的合一、それは神の最も秘められた身体の内奥にまで入り込むことである。真理を知るヨーガ行者は、すべてを貫通する、私の秘められた最奥身へ侵入し、私との合一を獲得する。救済とは「私（シヴァ）との至高の合一」であり、涅槃、ブラフマンとの一体化であり、これは聖者の知ることである。ここには一元論、仏教、ヨーガなど合一へいたるすべての道を包容しようとする試みがみられると同時に、あらゆる救済の道は神との愛の合一において成就することが示されている。神は超越的で偉大、畏るべきもの、同時に世界に内在して万物を創造維持し、各世界周期の最後には万物を自己の内に溶解させる。神は個我の中に住し、その力によって個我を悪との関わりから解放して自由にする。最も貴重な唯一無限者が地上に降りてきた。個我は、その性格から本質は神なるもの、神への帰依と神との合一によってのみ神化される。この教義では、神は愛であり、神がこの世で行うすべての行為は人間を愛によって導き、神自身と合一させるという目的をもっている。私はあらゆる処に貴方を感じる。あらゆるものの中に貴方はいる。私は、すべての瞬間に、私の愛を貴方に捧げる。
