インターネット上を飛び回る金も「俺なら」自由自在に出来る筈だ。
16歳以上の肉体の枠、宇宙全体との合一、意識のみならず意識を飛び出し超越し、つまりは現実にもそうなるということ、神秘学に通ずる。枠も16歳に軌跡道程に完全に繋がっているから今直ぐ今枠史だ。エンゲルスのフォイエルバッハ論が16歳の倫理の教科書で印象に残ったな。自我で自信で独り一人！！全体全面まで埋め尽くす。神だけが徹底した完全な真の観念論者である。神だけがすべての事物を表象する。神だけが完全な哲学者である。神は、後の思弁哲学に見られるような完成され細部に至るまで仕上げられた絶対的観念論の理念である。ある事物の理念とは、そこである事物が他の諸事物と関連している現実のうちで、それが受けている多くの制限や混濁を拭い去った本質である。すべての唯物論的表象から浄化された知性は神的知性である。ライプニッツの理念が後の哲学では真理及び現実になった。絶対的観念論とは、ライプニッツの有神論の神的知性の実現であり体系的に仕上げられた純粋な知性である。神は思考する存在である。神が思考し自己の内に含んでいる対象、神は事物を思考しながら唯自分自身を思考するのであり、自分自身との統一にとどまっている。思考するものと思考されるものとの統一が思弁的思考の秘密である。神は一つの精神的抽象的存在であるが、同時に一切の存在を自分の内に自分の抽象的存在との統一において包括している存在中の存在である。一つの抽象的精神的存在と同一である多くの存在とは、それ自身抽象的な諸存在、諸思想である。原型として事物に先行し創造する神の知識（先天的思弁的な知識）、あるいは思考と、事物の模写としてそれらの後に来る人間の知識（後天的経験的な知識）、神は凡そ最も個別的な事物を知っているから全知者である。人間が神について持つ表象は、個人が自分の類について持つ表象である、あらゆる実在性或いは完全性の総括としての神とは、個々の人間に部分的に配分されており、そして世界史の経過の中で実現されてゆく人類の諸特性が、制限のある個人用に便覧的に要約された総括である。自然諸科学の領域を見渡す（彼なら出来る）。あらゆる個々の事柄を同時に知っている神の知識は、その実在性を人類の知識のうちに持っている。神の遍在も全知と同じく、それは同様に人間のうちに実現されている。神はありとあらゆる場所に同時に存在し、しかもありとあらゆるものを分け隔てなく同時に知っている。「ここで私は人類の歴史の知識の頂点終点に居る！」と叫べるような点に達せるか。絶対的な無前提性、思弁哲学の始まり、とは、神的存在の無前提性と無始性、すなわち神的存在の自立性である。神学は、神の活動的な性質と静止的なそれとを区別する。哲学はしかし、静止的な性質をも活動的なそれに、神の本質全体を活動に、しかも人間的な活動に変える。思弁哲学は、神の現実化として神の肯定であると共に、神の廃棄すなわち否定であり有神論であると共に無神論である。神の肯定として同時に神の否定であり、神の否定として同時になお神の肯定である有神論は、汎神論である。神学的な有神論は空想上の汎神論、空想上の汎神論は実在する真の有神論である。有神論と汎神論とを分けるものは唯一つ、人格的存在としての神の想像、表象である。神のすべての規定は、神は必然的に規定されている、現実の諸規定すなわち自然あるいは人間の両方に共通の諸規定、だからこそ汎神論的諸規定なのである。有神論は、仮象と本質との矛盾、表象と真理との矛盾であり、汎神論は二つのものの統一である。汎神論は有神論の赤裸々な真理である。有神論のすべての表象は、それらが直視され真面目に取られるとき、それらが貫徹され実現されるとき、必ず汎神論に到達する。汎神論は徹底した有神論である。有神論は神を世界の原因、しかも生きた人格的な原因、世界の創造者と思っている。すなわち神は世界を自分の意志によって産み出したのである。神が産み出した事物は、産出以前に神の中に神の知性の客体、つまり知性的本質としてあった。神学では、神の知性とはすべての事物と本質との総括である。
