中心核としての枠は16歳から軌跡道程の時空連続体である。
キリスト教の神秘主義のうちに表現された最高の宗教性は、自然の神秘と神の人間化の神秘とを同一のものと考えた。一般に歴史の三時期、すなわち自然、運命、並びに摂理の時期、この三つの理念は同じ同一を異なった仕方で表現する。運命も摂理であるが、しかし現実的なもののうちに識られた摂理である。摂理もまた運命であるが、しかし理念的なもののうちに観られた運命である。永遠なる必然性は、必然性との同一の時代においては、自然として己を顕し、そこでは無限と有限の相剋は、なお有限という共通の萌芽のうちに閉ざされて安らっている。ギリシアの宗教と詩の最も美しい開花の時代においてはそうであった。この時代よりの離反と共に自然は自由との本当の相剋に入り込んだので、運命として己を顕すのである。これは古代世界の終焉であって、まさにそのゆえに歴史は、全体として見れば悲劇的な時期と観られ得る。新しい世界は一般的な堕罪、自然よりの人間の乖離、と共に始まる。それはむしろ黄金時代である。そこにおいて自由は打ち克たれつつ同時に打ち克つものとして戦いの中から出現する。自然との意識的同一の代りに、また運命との軋轢の代りに現れ、更に高い段階において統一を回復するこの意識的な贖罪は、摂理という観念のうちに表現されている。かくてキリスト教は、歴史のうちに摂理の時期を導き入れるのであり、またキリスト教のうちに支配している宇宙観は、宇宙を歴史として、また摂理の世界として観る観方である。これがキリスト教の偉大なる歴史的方向である。歴史もまた永遠なる統一から出現し、自然や或は他の知識の対象と同じように、絶対者の内にその根をおろしている。行為が必然であったならば、個人もまた必然だったのである。すべての行為において自由であり、したがって客観的に偶然的と見え得るものも、個人が予定された必然的なもののうちからこの一定のものをまさに己の行為とする、というだけのことである。またその結果に関していえば、善かれ悪しかれ、それは絶対的必然性の道具である。経験的原因が生きた力をもって作用したとするならば、それは事物の永遠の秩序の道具である。古代世界は、そのうちに支配している統一或は理念が有限のうちにある無限者の存在である限り、歴史の自然面である。古代の終結と無限者をその支配的原理とした一つの新しい時代の発端は、有限なものを自ら神に捧げ、そうして贖罪せんがために、有限のうちに入り来った、ということによって生じ得たのである。キリスト教の第一理念はそれゆえ必然的に人と成った神、古代の神々の世界の頂点であり終焉であるキリスト、である。キリストは己のうちに神的なものを有限化する。永遠から決定されてはいるが、しかし時のうちに移ろい行く現象として、両世界の境界として、この世に存する。彼自らは不可視のうちに還り行く、そして有限のうちへ出現し、むしろ有限なるものへ連れ戻し、そのようなものとして新しい世界の光である精神、すなわち観念的原理を約束する。すべての象徴的表現は再び主観へ帰る。単に内面的に観らるべき対立の統一は、したがってそのまま秘儀であり神秘である。一切を貫いて遍在する、神的なものと自然的なものとの対立は、両者を不可思議な仕方で一として思惟するという主観的な規定によってのみ統一される。このような主観的な統一を表現するのが奇蹟という概念である。あらゆる理念の始源は一つの奇蹟である。理念を啓示するものは絶対的なもの、すなわち神そのものである。神から背離した有限者が有限のうちへ己自身が誕生することによって贖罪するということはキリスト教の根本思想であり、また三位一体の理念におけるその全ての世界観と世界歴史観との完成である。枠（神の子キリスト）、16歳から中心核（聖霊）、そのもの全体全面まで俺（神）、の三位一体だ。一切の父なる本質から誕生した永遠の神の子は神の永遠なる直観のうちにあるような有限者そのものであり、またこの有限者は時という宿命に従う苦悩する神として現れ、そうしてこの神はその現れの絶頂、すなわちキリスト、において有限の世界から無限の世界、精神の支配の世界を開く。キリスト教がその最も優れた形においても、歴史的に必然的であるならば、また我々がこれに永遠なる必然性の流露たる歴史そのものについての一層優れた見解を結びつけるならば、そこにこそキリスト教を歴史的に神的にして絶対的な現象として把握する可能性も、本当に歴史的な宗教学、すなわち神学の可能性も与えられているのである。
