人生は苦痛であり恐怖である。
人間は今では人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。この世は一つの劇場、人間のなすところは一場の演劇なり。心は一種の劇場だ。そこでは色々な知覚が次々に現れる。去っては舞い戻り消え混じり合っては限り無く様々な情勢や状況を創り出す。神の王国に居る。生を愛するが故に死を恐れる思想は欺瞞であり、生の苦痛を征服し自殺する勇気を持った新しい人間こそ自ら神となる。ああ、僕の人生というものは辛い。恐怖と戦いと苦しみに満ちている。だが、それはもはや決定した歴史だ。化転のうちに比ぶれば夢幻の如くなり。憂鬱は凪いだ熱情である。お昇りなされ、あるいは下りなされ。同じことじゃよ。私は私自身の証人である。地上的な希望はとことんまで打ちのめされねばならぬ。その時だけ人は真の希望で自分自身を救うことができる。私の生とは幻想である。人生のゲーム、自己劇化への投身。人の一生には焔の時と灰の時がある。火を消すには火をもって為せ。貞淑とは情熱の怠惰である。花に嵐の例えもあるさ。さよならだけが人生だ。神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。我々は苦しむ以上に恐れる。敗北は受容的、勝利は理念であり統一的法則。英雄に讃仰と忠節を捧げたまえ。そうすれば自分自身、英雄的となる。攻撃する勇気は死をも殺戮する最善の殺戮者だ。イタリア人の勇気は怒りの発作、ドイツ人の勇気は一瞬の陶酔、スペイン人の勇気は自尊心の現れ、希望とは地上の道のようなもの、歩く人が多くなれば、それが道になる。青春は失われた国だ。そこには不安の道、幻覚の宿屋、苦悩の城、空中楼閣の宮殿、危険な初恋の場所などがある。必要は最も確実なる理想、発明の母である。詩人の顔と闘牛士の体とを持ちたい。現代の資本主義社会にあるものは宿命だけだ。君を飛ばせる飛躍は誰でもが持っている我々人類の大きな財産なのだ。人間について大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。俺の体じゃ何処も彼処も心臓ばかり、至る所で汽笛を鳴らす。科学的に取り扱われた自然、作詞されたものこそ歴史である。人間は自分の歴史をつくる。自分に与えられ約束されてきた情勢のもとでつくる。私は私自身の記録である。心の有り様、心は無、抜いたら死ぬことと心得、我が全身は空にして心は無なりという恐るべき剣の極致に達している。死生眼という眼がある。遥か遠くを見渡す少年のように凛々しく優しい眼、修羅の道で余多の死を見続けるうちに生命というものの儚さを知り、生きることからも死ぬることからも解脱したる眼、御仏の半眼にも通じる眼、人でいうなら聖の眼とでも申せる。人間の道、天上天下への道、畜生への道、修羅への道の五道をしっかり踏まえ、大悟に通じる。『誤りから救うもの』若くして当代最高の学者、聖職者の地位に登りつめた男ガザーリー、中世イスラム知識人の自伝・・突如襲った懐疑、放浪と修行、孤独と隠遁の日々、遍歴の果てに見出されたものは？ガザーリーの自伝でもあり弁明でもある本書からは、特異の生涯を送った一知識人の内面の軌跡、激動の歴史に曝されたイスラム世界全体の変容が読み取れる。知と信の分裂、自己と文明の解体、更にはそれらの克服と再統合への道を証言する第一級のドキュメント。哲学は我々の探求する目的との関連で、数学・論理学・自然学・形而上学・政治学・倫理学という六つに区分される。数学には算術・幾何学・天文学が含まれる。数学を学んだ人は、その正確さと明晰さに驚嘆する。その神があるものに自己を顕現される時それは神に従う。論理学、それは、証明や推論の方法、証明の前提のための条件、諸命題の結合の様式、正しい定義の条件やその仕方についての考察である。それはまた知識とは概念と命題、概念を知る方法は定義、命題を知る方法は証明である、といったことについての研究である。自然学は、天上界やその星々、及びその下にある空気・土・火のような単純物体、及び動物・植物・鉱物といった複合物体について、更にはそれらの変化や変質や結合の原因を研究する学問である。それは人体とその主要器官や付属器官、またその体液の変化の原因を研究する医学と同じである。自然は至高なる神に完全に服従している。それは創造主によって使役されているのである。肉体に結び付いた純粋霊魂が賞罰を受ける。至高なる神は普遍を知り、天においても地においても塵一つの重さも知る。過去と未来に亘る世界の永遠性の主張、まず真理を知れ。そうすれば真理の保持者を知る。知性ある人[知者]は真理を知り次に言葉そのものを考える。大多数の人は自己の能力や技術を過信し、真偽を弁別し正しい道と誤謬を区別するための完全な知性と健全な感覚を持っているとの思いに取り付かれている。
