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精神は絶対的原因として生産作用そのものである。精神は生成する精神なるがゆえに、主・客観化の運動として己を把握する。無意識的生産的精神は無意識的に自己を実現して行く合目的活動、すなわち生命、有機体と見られるに至る。所産の総体としての全自然はそれ自体においては自己組織であり、その最高の目的は精神の自由である。我々の前に展開する外界は、それ自身我々の精神が自由の自覚に達する道程としての精神の歴史である。自然は無意識の精神が己を自覚するまで発展する種々な段階である。その意味で自然は絶対的主観としての精神が己を客観化したものであり、『精神の歴史』である。自然はそれ自身が己を生み己を組織して行く主体的な生命である。自然について哲学することは自然を創造することである。自然と共に生きつつ、主体的自然の生命の自覚の姿を学問の言葉に写し取る。自然を自由化することによって目的概念を構成原理たらしめた。自然と精神とはその根源において同一である。自然は精神である。精神は絶対的主観として主客の対立以前の絶対者として自我である。自然は精神の前史であるから、それ自ら実在しながら意識へと展開する。自然は自己を主・客観化して次第に勢威を高めて、遂に人間の意識に達して、そこで自己運動を完了する。自然哲学である。無意識と意識との同一こそ真の自我である。この無意識と意識的活動との同一の無意識的な働きが、合目的的な自然界を生産する。自我の本質は何処までも自覚にある。無意識と意識との同一が意識的に働くところに天才の芸術的活動が見られる。美において意識と無意識、すなわち観念的なものと実在的なものの同一が現実に示現する。そのような自覚において『体系』は終結する。同一哲学は自然と精神、実在と観念との同一を原理として展開される。哲学はどういうふうに己自身を規定したとしても根源の学問である。様々に異なった哲学がこの世に存しながら、根源の学としての哲学は一つである。根底はそれ自身精神である。自我は一切である。自我は非我を己の内に措定する。自我はそれ自身が働きであるが故に己ならざる非我を措定することによって己自身を実現する。自我は働きなるがゆえに非我の障を必然的に要求し、それに打ち克つことによってのみ自我なのである。己自身との完全なる同一性の要求こそ自我の絶対的要求である。疎外された己を回復すべく絶えず働かなければならぬ。回復のための努力こそ自我の本質である。非我の根拠は絶対的自我において求められ、努力の可能のために対象すなわち非我が既に与えられているとすれば、それは一つの循環となる。対象による自己疎外からの回復的努力が己の成立の一層深い根拠に自己同一的自我の絶対的措定の本質的要求を最奥の根拠として前提している。自我をして努力的たらしめる媒介となる対象の成立がその可能の根拠に絶対的自我を前提する。対象の成立と努力の可能という、二つのことの根拠に絶対的自我がある。自我に逆らい対するということから抽象的に切り離された自体における非我を考えるということは独断論になるとすれば、絶対的自我の理念は命令となる。完全なる自己同一的自我はその体系の出発点であり、しかも対象の成立と自我の努力の可能の根拠である。絶対的自我は対立の真の統一を含む？根源への深まりは自我が自然すなわち非我となって、己の外に溢れ出て一切となり終りながら、しかもそれとの同一に達することである。彼の自然哲学の様々の試みは、自我が自然との同一へ達しようと自覚して行く過程であり、自然が次第に自我として精神として己を自覚的叡智にまで高めて行く道程であった。同一の原理を理性とよんだ。あらゆるものの生命である絶対的主体としての理性である。その理性は主観と客観との全的な無差別として考えられた限りの理性である。そのような理性は唯一であって一切はそのうちにあるのだから端的に一であり己自身に等しい。同一律はまた一切の存在に対する最高の法則である。存在するものは同一のみであり一切の存在はそれ自体においては絶対的同一そのものであり本質である。存在は一のみである。同一にとっては思惟されることと存在することは同じことである。量的無差別或は総和としての絶対的同一が宇宙そのものである。主客の量的差別は有限性の根底であるが、同時に主・客観性の形式の現実性の条件である。絶対的同一の本質はすべての存在の内面的な根底である。したがってまたそれは物質の実在性の根底である。絶対的同一の中での牽引力と拡張力？絶対者は本質（絶対的に観念的なもの）と存在（絶対的に実在的なもの）と形相（同時に両者）との同一でもある。哲学は万物の永遠なる原像を求める。原像の認識は真理であると共に、また美である。美においては普遍的なものと特殊的なものが絶対に一となるのであるが、理念は普遍と特殊との一と多との統一であるから。シェリングはこの原像を諸理念とよび、その諸理念の統一としての最高の理念を『理念の理念』といっている。この最高の理念は本質としての絶対的同一のイデア論的表現であり、諸理念は個々の存在の原像として、それにおける永遠なる絶対的同一の本質である。このような思想は容易にライプニッツの単子論を想い起させる。理念といわれているものが単子（モナド）に似ていること、また理念の理念が『単子の単子』にの表現に近いこと、シェリングは或る意味ではフィヒテからライプニッツへ行ったともいえる。学問はその現象上時間の生むものであるが、しかし時間の真っ只中にあって永遠の基を立てることを目指す。真なるものはそれ自体において正しく且つ美しきものと同じく、本性上永遠である。学問が時間から独立であるということの本質は、学問というものはそれ自身永遠である人類のものだということのうちに現されている。生命や生存と同じように、学問もまた、必然的に個人から個人へ、時代から時代へ伝えられるのである。伝承はその永遠なる生命の表現である。言葉の精神的な素材の中に永続的な価値をもつであろう形式と技術との表現を含ませようという考えは、後になって漸く目覚めたのである。近代世界はすべてのものにおいて、そして特に学問において、過去と現在に同時に生きている分かれた世界である。枠も過去と現在に同時に生きている。知識の根源的対象に、それについての過去の知識が新しい対象として付け加わったのである。16歳が永遠に若かったとすれば、今はその青年において既に経験を積み老成していたのである。学問並びに芸術を、歴史的発展において見る研究は一種の宗教となった。それらの歴史の中に世界精神の意図を知る。外的な世界の動きに対応して人間自身の精神の内に、必然的法則に従って、一層静かではあるが、それに劣らず根底的な変化が起る。精神的変化、学問の革命、それらを生じた理念、一定の学問的精神或は芸術的精神を表現する作品そのものが、必然性をもち法則によって成立する。古代は永久に神聖である。行き渡った分裂からなお再び全体の統一が生ずる。

