今一度もう一度あの16歳に若返って・・この体内で軌跡道程を再体験しやり直すんだ。16歳丹田から積み重ね上げた軌跡道程から今中心核全枠から広げ広がり続けた領域そのもの全体全面まで俺！！生まれる前から生まれ産まれてから16歳から今迄枠として。世界の根源に神に16歳から中心核に位置する枠だ。常に客の意見を取り入れていく、常に客のために顧客と共に業務をつくっていく、客の望むこと望むものを実現する、そういう姿勢が精神が企業には必要だ。仏教的な無常観が諦念を究極的な歴史態度とするのに対して、へーゲルの諦念は「理性的な世界秩序」といった体系的・構造的・客観的な歴史像に至るための一手段なのであった。理性的な世界秩序を展望出来るが故にへーゲルは特殊な歴史事象や個々人の運命に対して徹底して無常なものと見なすことが出来た。普遍的な秩序への展望と個別的な偶然性の捨象という一見ごく自然な体系的歴史姿勢の内には、立ち入って見るとへーゲルの歴史意識の苛烈さ凄まじさが覗いている。世界史の哲学に付随する唯一の思想は、理性に関する単純な思想、つまり理性が世界を支配し世界史もまた理性的に進行しているという思想である。民族の諸々の事件の中には究極目的が支配していること、世界史に神的絶対的理性が存在すること、我々の前提する真理である。その真理を証明するのが世界史論考そのもの、この論考は理性の像であり行為だからである。宗教的見解によれば、自然存在の目的がそうであるように、精神活動の目的も神の栄光を称えることにある。実際それは精神と歴史の最も価値ある目的である。絶対者の意識を唯一無二の真理として獲得すること、一切をそれに従って整除すべきものとし現実にそれに従って整除すること、絶対者が現実に世界史を支配史を支配しているし、してきたことを認めること、それこそが精神の目的である。こうしたことを実際に認識することが神に名誉を与え真理の栄光を讃えることとなる。キリスト教の神と厳密に同一といえる？ヘーゲルの主観にとっては、この神はキリスト教の神を哲学的に表現したものであった。歴史における理性が神の顕現だとすれば、歴史の合理性現実性を把握する歴史哲学は神の合理性現実性を論証する学問と名付けても良い。歴史が合理的であることを説き明かすことは神が歴史のうちに存在することと同じ意味を持つ。神は論理の世界にも自然のうちにも芸術や哲学や宗教のうちにも自己を啓示するとされる、ヘーゲルの歴史意識は自ずから神に触れるように存立していた。
