今日で中心核と枠を一つに合一する。今日中に中心核も枠も一つに合一する。私のあらゆる部分はそれぞれ変化によって宇宙のある部分に配分され、次にそれが新たに宇宙の他の部分に変えられる、という風に無限に続いて行く。私が生まれてきたのもやはりこのような変化によるのであって、私の両親も然り、という具合いにもう一つの無限に遡って行く。宇宙を支配する自然はすべて君の見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界が常に新たであるようにするのである。宇宙の周期的運動は上へ下へ永遠から永遠にわたって同じである。宇宙の精神は個々の場合に行動に出る衝動を覚えるか・・衝動の結果を受け入れよ。一度だけその衝動を覚え後は因果律に従って起ってくる。宇宙の原因は一つの奔流である。それは万物を運び去る。君は多くの無用な悩みの種を切り捨てることができる、何故ならばこれは全く君の主観にのみ存在するからである。全宇宙を君の精神で包容し、永遠の時を思い巡らし、あらゆる個々の物のすみやかな変化に思いをひそめ、誕生から分解に至るまでの時間のなんと短いことかを考え、誕生以前の無限と分解以後の永遠に思いを至すがよい。それによって君は忽ち広々としたところへ出ることができるであろう。喪失は変化にほかならない。これが宇宙の自然の喜びとするところなのだ。その自然に従って万物は生起し、永遠の昔から同じ形の下に生起し、永遠に至るまで他の同様な形の下に生起して行くであろう。叡智ある一つの泉から万物が一丸となって出てくるか、それとも原子ばかりあって混沌と分散だけなのか、そのどちらかである。宇宙の中で最も優れたものを尊べ。それがすべてのものを利用し、すべてを支配しているのである。同様に君の内にある最も優れたものを尊べ。それは前者と同じ性質のものである。何故ならば他の全てのものを利用するそのものが君の内にもあり、君の一生はそれによって支配されているのである。偉大な魂を持ち、全時間、全物質を包容しうる人にとって、人間の一生などというものが大事に見えると思うのか。不死の神々と我々に喜ばしきことを与え給え！善と正義は我と共にあり。同一の人間が一方では烈しくありながら、他方では優しくありうるということを生きた例ではっきりと見たこと。克己の精神と確固たる目的を持つこと。孤独の人であった。孤独と憂愁から魂の呻き声、孤独の中で心の自ずからなる要求から日々静かな瞑想の一時を持つ習慣が養われた。自己の内を見よ、内にこそ善の泉がある。君が絶えず掘り下げさえすればその泉は絶えず湧きでるであろう。読書と瞑想に耽ることが何より好きな内向的な彼にとって、皇帝としての責任を一身に負い、政務や戦争に忙殺されるのは決して有難いことではなかった。しかし義務観念の強い彼は、全努力を傾注して与えられた仕事を果し、また自分の理想とするところを現実化しようと心を砕いた。心も体もバラバラに分解しされて世界に溶け込むだけだ。枠から丹田に集め集まるように、人生から軌跡道程から16才に集め集まる。軌跡道程中心核枠から16歳丹田に集め集まる。積み重ね上げた軌跡道程も、俺の枠の財産だ。その全てを己に取り込み血肉とする。縦横無尽に動き回る。鎖骨問題から解放されれば復鼻高く美貌になることだって、頭蓋骨から解放されれば復頭良く宇宙最高になることだって・・心の内にあるもの全部を外に吐き出し吐露して自体中心核である。観念が思惟の世界における関係はその対象が実在の世界における関係と同じである。確固・永遠なる事物、無限様態、法則、普遍的な所産的自然、神に直接依存し、あらゆる永遠からこの方存在しあらゆる永遠にわたって不変であり、すべての個物はこれによって生ぜられ、個々物の原因である。精神と全自然との合一性を認識するとは神を識り且つ愛するというのと同一意義である。或る観念がそれ自体で見て真の観念のあらゆる内的特徴を有する場合その観念は妥当な観念と言われる。明瞭判明な観念というのとほぼ同じである。知性が絶対的に形成する観念は無限性を表現する。点の運動から線が、線の運動から平面が、平面の運動から立体が生ずると知覚する。知性は事物を持続のもとによりも或る永遠の相のもとに及び無限数のもとに知覚する。観念は、その表現する対象の完全性が大であればあるだけ完全である。個物の認識は確固・永遠なる事物から得られる。確固・永遠なる事物を知るためにはまず我々の知性の本性と能力とを吟味する。それには知性の定義を識る。これには知性の本性と能力との認識を要する。循環論から逃れるため、まず物の本質を知って後その諸特性を推知してゆくという順序から、物の諸特性からその本質を帰結するという逆コースを辿る。知性の定義ないし本質を知り、更にそれを拠点として永遠無限なる事物の認識に至り、永遠無限なる事物から変化する個物の認識に到達し得る？感覚と経験との援用？神の観念から一切を知性の示すがままに演繹的に導き出してゆく。
