今枠は種から根から茎から花実である。
16歳丹田という種から根から軌跡道程正中線という茎を伝って通って今中心核枠という花が咲く実が生る。専制は、偶像を崇拝する魂の状態、大地への根付き、隷属している人間がときにその主人に捧げる讃美にまで遡る。存在するものに先立つ存在すること、形而上学に先行する存在論こそが（たとえそれが観想の自由であったとしても）正義に先立つ自由である。それは〈他者〉に対する義務に先立つ、〈同〉の内部の運動であることになる。哲学的な伝統にとって〈同〉と〈他〉のあいだの相克は〈他〉を〈同〉に還元する観想によって統合一致されている。倫理的関係は、絶対的な外部性において在る存在を目指して行くことで、真理への歩みに力を与える志向を達成しようとする。観念を溢れ出してしまうような存在との関係とは、その存在が存在者であることに由来する権威が既に主張されているような関係である。その権威は、当の存在者が有する存在の意味に関して設定されうる一切の問題の直中で主張されている。人は無限に隔たった存在について自問するより問いかける。神との直接的合一を説く。《私》の分離は必然、神との隔たりは根底的で必然的なものとして存在それ自体のうちで生起する。融即としての超越は、それが向かう存在の内に沈み込む。一切の物が神の内に含まれるという教説が全体系の根底であるならば、それは理性体系の原理となる前に生気を吹き込まれ抽象から離される？有限なる存在者は神の変様または帰結である、というごとき表現のいかに一般的なることか。実在論と観念論との交互投入が、著者の諸々の努力の明白な意図なのであった。スピノザの根本概念は観念論の原理によって精神を吹き込まれ（かくして唯一の本質的な点において変ぜられ）、自然のより高き観方において、また力動的なるものと心情的精神的なるものとの認識ぜられた統一において、生きた基底を与えられた。そしてその基底から自然哲学が発生した。自然哲学は、単なる物理学として存立することはできたが、哲学の全体に関してはいつも単にその一部分すなわち実的部分として、自由の支配する理的部分の補足をまって初めて本来の理性体系に高められ得ると考えられた。自由のうちには最後の勢位高揚作用があって、これによって全自然は感覚に知性に遂には意志に変貌される、と主張された。最後のまた最高の所から判ずれば意欲が根元的存在である？意欲にのみ根元存在のすべての述語、永遠なること、時間からの独立、自己表現、が妥当する？哲学全般はただこの最高の表現を見出すことに向かって努力するのである。想いを叶えるために今動く。日々勉強、日々努力。哲学の仕事は既存の与えられた多様に外的形式的統一を与えること、唯一の第一原理から一切現象を演繹する。有機体は実体と偶然とを完全に一なるものとして、また主観客観化の絶対的作用におけるように一に形成されたものとして現す。有機的存在は、単に個体或は類としての己自身の無限の可能性をもつ。再生産の状態たる前の状態においては、可能性と現実性は二つながら個体に限られていた。そしてその故にそれ自身一であった。独立的運動の状態たる後の状態においては、個体は己の範囲を超え出て他物に向かう。以上の二つの状態が、いっそう高い状態において結合され、そして自己の可能性の入り込んでいる同一物へ、他物の無限の可能性が同時に現実性として入り込むならば、それと共に全有機体の最高の機能が措定される。物質は、あらゆる点において全く本質の、すなわち観念的なもの、の偶性であるが、観念的なものは自体においては生産的であり、ここでは有限な物と関係しているから、観念的であると共に感性的生産的であり、したがって直感的である。一般的自然もただ神の自己観想においてのみ成立し、またその結果であるが、やはり生物のうちにも永遠なる生産作用が認識され客観化されている。固有の精神が、そこにおいて限界を打ち破る。有機的機能をその形相の普遍性と必然性とにおいて認識することに次いでは、その機能相互の間の関係を、個体においても、また有機組織の世界の全てにおいても、規定する法則の認識が根本的で最も重要なものである。個体は個体たることを顧みれば一定の限界に拘束され、限界を越える時に個体は疾病に罹る。この状態の構成は、普遍的有機的自然論の一部門、生理学と呼ばれる。有機体における可能性と現実性との極度の対立並びに両者の均衡の破壊から、この上ない普遍性をもって導き出され得る。疾病の特殊な形相や現象は、有機的活動の根本形相の変様した関係から認識される。有機体には二つの関係がある。自然的関係、それは生命の内的要因の純粋に量的な関係として、同時に自然並びに外なる物への関係である。次元に関する両要因の関係、有機体が完全であれば宇宙の形象であり絶対者の表現であるが、その関係は完全性を表示し、それを神的関係と呼ぶ。体系にまで形成された観念論においては、一切の真実現実的なるもの（自然、物の世界）が活動、生命、自由をその根底にもつ。自我性が一切、また一切が自我性である。自由を敢えて哲学の唯一かつ一切なるものとする思想は、人間の精神を自由のうちへ解放し、また学問に対しても、従前のいかなる革命よりも更に力強い転換をそのすべての部分に渉って与えた。自由は最内奥なる前提である。自由を味わったことのある者のみが、一切を自由に類比せしめたいという願望、宇宙全体の上に自由を拡げたいという願望を感ずる。個々のものが事物であって一つの絶対的実体に包含されるのであろうと、或いはそれらがみな意志であって一つの根元意志に包含されるのであろうと、汎神論にとってはどちらでも同じだからである。第一の場合ならば汎神論は実在論的であり、第二の場合ならば観念論的であるが、根本概念はいつも同じである。最も変化に敏感なものが生き残る。環境の変化に合わせて自らを変化させていく能力、長期にわたり支配的地位を維持してきた大規模企業が急速に衰退していく例は枚挙に暇がない。長期間にわたり競合優位性を維持できている企業は、その歴史を振り返ってみると驚く程の変化を達成している。自らの再構築を常に行ってきたと言えるだろう。
