今枠よりも16歳から全時期全枠として存在する。
本当本来本性の自己自分自身は今枠よりも16歳から中心核からそのもの全体全面まで俺、本当本来本性の自己自分自身に一つである。今枠も抜け出し出て終わっている。また完全に生き返った生まれ変わった、新生枠だ。今枠の全能力ごと根こそぎ中心核、過去現在未来も全時期が今同一時に存在する。もっと頭冴えさせ冴えるんだ、頭脳明晰になる、鋭くなる。脳も身体も極肥巨大化している。神経科学の場合、脳の働きについて理解するためには、生物学に加え、細胞生物学、遺伝学、工学、システム工学、コンピューター科学、物理学といったすべての分野の知識が必要。自分の研究所にあらゆる分野の人々を集め脳の働きの解明に努めている。細胞の調節一つとっても、あらゆる分野の知識が必要。不可思議解脱の中にある菩薩は、輪廻が無限によって教化されるべき衆生を訓練するためには七日を一劫のようにあらわし、輪廻が短いことによって教化されるべき衆生に対しては一劫をも七日過ぎただけのようにあらわす。不可思議解脱にある菩薩は、あらゆる仏国土の徳の輝きを一仏国土の中に現出する。また、すべての衆生を右手の掌に乗せたまま“心の迅速”という神通によって飛んでいって、あらゆる仏国土をすべての人々に見せる。十万の諸仏世尊に対するあるかぎりの供養をすべて一つの毛孔の中に現出し、十万のあるかぎりの月や日や星の姿をすべて一つの毛孔の中に現出する。十万（の一切の世界）に巻き起こる風輪のあるかぎりをすべて口の中へ吸い込む。十万の仏国土を焼き尽くす劫末の火の燃え盛るとき、その火の塊をすべて自分の腹の中へ入れてまで、その為すべき義務を果たす。不可思議解脱にある菩薩は、あらゆる衆生の力となり、転輪王の姿を変現する。護世（の神）の姿を変現し、シャクラ（インドラ神）の姿を、ブラフマーの姿を、声聞の姿を、独覚の姿を、菩薩の姿を、仏陀の姿を変現してあらゆる衆生の力となる。上中下あらゆる種類の十方の衆生の発した声、語った声、そのすべてに特別の力を添加することによって仏陀の説法、仏陀の声、ダルマ（法）の声、サンガ（僧）の声として変現出させる。その（衆生の）声からはまた（あらゆる存在は）無常であり苦であり空であり無我であるとの声を響き渡らせる。あらゆる声聞や独覚は痛苦の声を放ち三千大世界に響き渡る。あらゆる菩薩は、この不可思議解脱を聞いて、若い王子が王冠を授けられる時のように大きな喜びをもって頭上に頂き、それに対する力強い意欲を起こす。菩薩こそが菩薩に強要し耐え忍ぶ。悟りとは基底のないところにある。諸仏が過去にあり現在にあり未来にあるというのは文字や数字で表現したにすぎない。諸仏は過去でも未来や現在でもなく悟りは三種の時間を超越したもの、全時期に存在する。阿羅漢としての位を得るところがないということによって得た。それと同じく、悟りの完成がないということによって悟りに達する。神通の知をもって遊び願いより生まれ出で（無生法）忍を得ており不退転の位に入っている。人々を成熟させるために願力からして自らの欲するままになっている。菩薩は仏陀の法を道として進む。学ぶところは無限であり対象も無限である。無限の知を完成して人々を無限に解脱させる。自由に自分を存在として変現する（法自在）菩薩、吉祥な秘密、善き星、妙なる腕、善眼、獅子（師子）、神である電光（電天）、無尽意、無尽慧、深く優れた知恵、深慧、甚深覚、感官の静かな（寂根、寂静根）、蓮華で飾られた（華厳）、光輝を旗印とする心が訓練された菩薩が説く。空性と無相と無願が別々、生じることと滅すること、（地水火風の）四界と虚空界とは別々である、菩薩の心といい声聞の心、眼と色形、一相であり無相、汚れといい浄めという、我あり我がものありという、動きと思考、過失のあるなし、煩悩のあるなし、幸福と不幸、世間的なものと超世間的なもの、輪廻と涅槃、有我と無我、知（明）と無知（無明）、闇と明、色（物質）と空、色が本性として空、同様に感受・観念・意志形成力・識知といい空性、布施と一切知への廻向、仏法僧を分ける、真実と虚偽、身体と身体の消滅、これが二。法は無生であるとの確信を得ること、あらゆる妄信が破られることへと導く道、ある相と別な相とにおいて相は平等であると悟る、他のものをも砕きうる金剛のような知をもって束縛も解脱もないと知る、すべての観念の結び目が解かれる、知識が極めて清浄なためにあらゆる数値を離れて知恵が虚空と等しく遮られることがない、世間の本性が空だとすれば出るは入る行くは来る、輪廻の本質を見極め超越する、識知の本性が空性、四界とは虚空界を本性とし、過去も現在も未来も虚空界を本性とする、界を理解する知、心を知り尽くして寂静、一切知も布施も廻向も一つに本質、一つの解脱門の中にあらゆる解脱門を見る、無為は虚空、あらゆる存在は虚空に等しい、生死を超越する、あらゆる存在も同じ性質のもの、その平等性を知る、無我の本質を見ることによって不二である、これが不二に入ること。つまり本当本性は一であるものを二と見る、二つが一つであるのが不二である。自我が起こることから二の対立が生じる。自我を真に知る、二の無の中に居る。菩薩が不二の法門に入って、ものはすべて不生であるという確信（無生法忍）を得た。
