俺の枠の全身体中隅々まで行き渡り通り浸透する。
見事な顔と身体の枠になった。マクロコスモス（宇宙）とミクロコスモス（人体）は、どのように照応しているのだろうか。人体を神の宮居、聖なる霊の神殿と観ずる秘儀の伝統は、忘却の危機にある。循環器系、呼吸器系、神経系を軸に、自我とその身体器官全般との関係について、神秘学的な観点から包括的に語った生理学の書。円周上を歩き終わりには再び出発点に到着する。芸術家は感覚を集中して外なる自然を観察し、無数の印象を集める。そして長い間にこれらの印象を内なる魂の働きによって自分のものにする。外からの印象を魂の中で変化させ、その変化したものに後から形式を与える。人間の身体は人間本性全体の一部分、霊眼が開かれたときには身体が超感覚的組織に包まれて現れる。身体が中心の核の部分になっているように見えるオーラは様々な色どりの中に現れる。オーラの色は途方もなく不安定で変化しやすい。非常に独特な多様性を示している。周囲の世界を眺めるとき、様々な作用が外界から感覚器官を通して上部組織に働きかけてくる。外から感覚世界を通して流れ込んでくるものを圧縮させて、一つの中心に作り上げたとする。あらゆる側面から中に流れ込んでくるものを、肝臓、胆汁、脾臓から流れてくるものと同じもの、変化させられた外界であると見る。上部で感覚を取り巻いている外界を諸器官にまで圧縮し、そしてそれを人体内部に移植した。一方では世界が外から働きかけ内部に入り込み、上部諸器官で血液と出会い、この血液に働きかける。そしてもう一方では秘密に満ちた仕方で、大宇宙の中に存在するものが圧縮されて生じた諸器官の中で、自らを差し出す血液に働きかける。人体の内界と外界からの働きかけだ。あらゆる側面から感覚に働きかけてくる世界がある。黒板のようにこの世界の諸印象を自らに描き込ませる血液がある。世界全体を圧縮して、この世界のエキスとして個々の器官をつくり内部に移植した。宇宙が内部に移植されている。宇宙が内臓器官の内に凝縮され内なる遊星となって現れている。神経系は生体内で多様極まる仕方で分化している。血液が体内のすべてを貫いて流れ、至る所で分化した神経系と結び付いているように、自我も表象、感情、意志衝動等に分化した魂の様々な営みと結び付いている。血液系と神経系が自我とアストラル体という、人間本性のより高次の超感覚的な部分の模像であり、一方エーテル体はむしろ肉体と結び付いて存在している。自分の自我を外界へ向け外から印象を受け取る。多様な内容が自我の中に生じる。様々な印象が外からやって来て自我を充たす。自我はまた、自分自身にも向き合う。自分の痛みや悲しみや喜びに関わる。記憶から立ち現れてくるものにも向き合う。自我は血液に似て、外界と内界とに向き合っている。内から外からくる印象を自我に関係づける。自我は意識の全地平にまで拡がる力を内に含んでいる。自分の本性の一部分が、全く意識的に、自分の中から引き離されてしまう。超感覚的なものが現れる。血液系全体から引き離されたような生体から離脱したかのようだ。血液系の中で体験してきたことの代わりに、それとは別の体験内容に出会う。これまでの神経活動は血液系の中で映し出されていた、今はそれ自身の中で映し出される。これまでとは異なる自我の中で生き感じ始める。高次の自我の中で超感覚的な世界からの働きかけを感じ始める。通常の印象は血液の中に模像をつくり存在し続ける。神経がそこから引き離されると、印象はすべて再び神経の方へ逆流する。一つの世界が神経の隅々にまで自己を開示する。打ち返される自分を感じる。魂の訓練を遂行する人だけが感じる。高次の人間に至るには自分自身から離れて自由にならなければならない。人間が本来外の世界に生きることができ、外界全体に自分を注ぎ込み、外界に身を捧げ、人間がそこに向かって飛翔しようとするもの、高次の世界に由来するものを血液の黒板にどのように描くことができるのか。見事な血液の機能と高次の世界との関係を考察するとき、血液の営みのすべてが人間の中心点となり現れる。人間の生体は宇宙全体の中に生きる霊のこの上なく正確な模像の一つだ。
