俺の枠の絶対圧倒超人的な実力行使だ。
生れる前から生れ産れてから16歳から今迄今枠である。俺は日本人だからな・・日本人の優秀さを奴等に見せ付けたい。でもこのケンタッキー・フライド・チキンで書いた字が如実に思い浮かび上がって来る事は女子店員に見られた証拠？その過去の現実なら書き換えてくれ。今枠に16歳も軌跡道程も引っ張り引き出し起こし返し歴史ごと今枠である。そいつは鍛えれば絶対にモノになる、兎に角扱け！！脳内ネットワークを強化する。個人単体枠の統一から破壊から混沌、そのもの全体全面としての統一に向かう。阪神大震災から１２年・・あの16歳も今に同じだ。蚊に血を吸われてから1995年阪神大震災が終わってからカルシウムお菓子を食べ始めて急激に能力上がり高まり始めて食べ過ぎて頭蓋骨グッグッグッグッと締め付け主要大部分体外に出し出てしまってから、俺の自己自分自身の領域も、枠から、そのもの全体全面まで広げ広がり始めた。コーヒーやチョコレートに含まれるカフェインが脳を活性化させる。道徳の主観性を形而上学の世界に向かって拡散させるよりは客観的現実に向かって克服していくという青年時代の発想、主観的道徳が主観的に絶対性を主張しえたとしても、その現実性は共同体精神の最高形態たる国家のもとで初めて獲得されることを、少なくとも近代社会ではそうあることを透視していた。内在的で首尾一貫した義務論とは、自由の理念に必然的に媒介され、したがってその理念の全範域たる国家の内に存在する関係の発展である。人間の本性に根ざし、人間に固有の普遍的理性の絶対的法則だ、とカントが主張した義務法則を、へーゲルは現実に存在する関係の発展だと言い切っている。カントの立場が道徳を絶対者として捉える立場だとすれば、へーゲルの立場は道徳をイデオロギーとして捉える立場だといえる。政治的社会的後進性という条件のもとで、知識人の自閉を正当化する観念としての主観道徳が広く受け入れられていた当時のドイツ思想界において、道徳の主観性を客観的現実に向かって超えようとするへーゲルの姿勢は際立って特異なものだったといえる。『キリスト教の精神とその運命』において、その客観的現実が主観的心情をも包み込む運命としてへーゲルの前に現れるのを見た。その運命を一つの構造として対象化しようとするとき、へーゲルの前には運命の主柱をなす実体として国家が現れてくる筈であった。客体的宗教を主体的たらしめることは国家の大事業、その為の施設は心情自由と調和し意思決定の根拠に間接的に働きかける。どれだけのことが国家にできるのか、どれだけのことが各人に任せられるか。本当の意味での国家とは、生き生きした民族の伝統が維持され、民衆の心情や想像力がその伝統の中で伸びやかに展開する、古代ギリシャの都市国家のことであった。へーゲルの思い描いたギリシャ国家は、共同体と個人が美しい調和を形作る理想的な国家であった。民族の精神、民族の歴史、宗教、政治的自由の程度などは、相互影響の点からしても、その性格からしても、互いに編み合わさって一つの繋がりをなしている。自然の次にくるのが人間の作品である。自由の対象となるものだけが理念と呼ばれる。我々は国家を超える。私はここに人類史の原理を書き留め、国家、憲法、統治、立法など貧弱な人間作品の全体を白日のもとに曝す。最後にくるのは道徳的世界、神、不死の理念である。自分の内に叡智界を持つ精神は絶対的に自由である。現に存在するものの理解を深めること、事態を落ち着いて検討し、現実に触れる場合でも言葉で表現する場合でも、落ち着いた意見を節度を持って維持する、といった態度を促進する。現に存在するものが必然に基づいてそうなっていることを我々が認識すれば、そうあるべきだという認識もまた得られる。必然性を認識し思考する習慣を身に付ける。一つの精神に支配された体系的な出来事である。大きく高く強く逞しく美しく深く遠く厚く激しく綺麗に優しく重苦しい。神、それを望み給う。本人の深い悔悟によって、その過去は浄化される・・私の神に祈りなさい。汝、この文字をもって勝て！ゆっくり急げ。ローマのストア学派哲人皇帝、五賢帝の中で最も聡明であったマルクス・アウレリウスの自律自戒の名著『自省録』現在も欧米において政治軍事など国の命運を担う地位にある者の自己修養のバイブルの一つとなっている。岩波文庫では女が訳してたから講談社文庫が良いかな・・へーゲルは国家統一の願望と理論を共々歴史によって肯定されることを通じて権力国家のイデオローグとなる資格を与えられたといえる。事実へーゲルの国家論は徹底して支配機構の頂点に照準を合わせている。青年時代の宗教論稿の中で、へーゲルは超越的な宗教批判者から沈痛な叙事詩人へと姿を変えていった。『キリスト教の精神とその運命』でへーゲルがキリスト教の運命を叙事的な鎮魂の対象と見なしたとき、キリスト教に代表される宗教は、観念的にどう批判しようと弁護しようと既に過去として完結してしまっていた。宗教はいわば歴史によって封印されていった。国家は新しい地平に現れていた。へーゲルの目の前にある国家は歴史に突き動かされ崩され新たな創造を目指して動き続ける運動体であった。国家は歴史によって批判され弁護されるような実体であった。宗教についてはありのままを認識し矛盾も受け入れる、国家についてはありのままの認識がその矛盾を新たな統一に向かって実践的に克服することを意味する。ドイツ憲法が近代精神によって歴史的に乗り越えられるという確信を表明する言葉でもあった。『ドイツ憲法論』から『法哲学』に至る二十年間に起こったドイツ史上の最も大きな変化といえば、統一なき神聖ローマ帝国が最終的に解体し、大領邦プロイセンに革新的貴族シュタインの諸改革を通じて新たな国家的統一が形成されたことであった。一八一二年、ナポレオン軍のロシアにおける敗北を機に開始されたドイツ解放戦争は、ドイツ連邦をナポレオンの支配から解き放った。歴史はへーゲルの期待する方向に大きく動き、へーゲルは国家の現実を快く迎える境地に立っていた。へーゲルの歴史意識は、国家を未来の統一に向かって解体すべきものと見る立場から実現された統一を維持し保存すべきものだとする立場へと大きく転換していた。へーゲルが目の前の現実に総体として向き合ったとき、最も本質的な問題として表れてきたのは、『ドイツ憲法論』においても『法哲学』においても国家の統一ないし統一国家の問題であり、それが将来の必然として想定されるか、現存の事実として把握されるか、へーゲルにとって歴史の流れが自ずから決定する事柄であった。存在するものを把握するのが哲学の課題である。存在するものは理性なのだから。存在するものの理性とは一面では確かに歴史の運命や必然性と通い合うものを持っている。嘗てはキリスト教において分裂、矛盾、対立、動揺が永遠に避けがたいことを教え、またドイツ国家の後進性と未来におけるその崩壊の必然性を教えた理性が『法哲学』では歴史の現在と未来とを断ち切るようにして存在している。存在するものが理性であるとは『法哲学』のへーゲルにとっては存在するものが理性的に完結していることを意味する。個人に関して言えば元々各人は時代の子で
