俺は時空間に充満遍満し飛び出し超越している。
時空間的に流れる積み重ね上げた軌跡道程も広げ広がり続けた領域も枠に繋がり結び付き枠のものだ。16歳から枠として積み重ね上げた軌跡道程、枠を中心として広げ広がり続けた領域、16歳も中心核も何もかも全部俺だ、だから枠にするなることは簡単容易な筈だ。枠としても16歳にも何歳にも全歳になることが可能、だから何時でも復活やり直しは可能だ。唯一無二の光り輝く絶対圧倒超人的存在として確立する。あの１６歳の脳が今枠にある。あー、彼女欲しい・・あの追浜古本屋店員が・・あー、とろけそうだ、最高だぁ！！好みの女性と激しく愛し合いたいー！！また毒素が抜けてスッキリ顔になった。背丈も筋肉も全然足りない、長身を筋肉で固め固まれば自信満々自信過剰になれる。自然のうちにおける悟性の第一の作用は、諸力の分開である。その所以は、かくしてのみ悟性は、自然のうちに、あたかも種子のように無意識的にではあるが、しかもなお必然的に、含まれている統一を展開することができる。それはあたかも、人間において、何物かを創造しようとする暗い憧憬のうちへ光が入って来るのは、すべてが相繋がりしかもその各々が他の際立って現れようとするのを妨げているごとき、思想の混沌たる混交のうちに、思想が相分かれ、かくして今や、根底に隠れて横たわりつつすべてを自らのもとに統括している統一が揚ってくることによってであるのと等しい。或いは、あたかも植物において、諸々の力の展開と拡散の関係のうちでのみ、重力の暗い紐帯が解けて、分かたれた素材のうちに隠されていた統一が発展されてくるのと等しい。すなわち、この（元初的自然の）本質は、神の実存に対する永遠の根底である故に、それは自らの内に神の本質を、たとえ閉じ籠められたままではあるが、いわば深底の暗黒の中に輝く生命の閃光として含んでいなければならない。元初的自然のうちへ措定された光が、自己自身の内に帰ろうと努める憧憬を激発して諸力の分開に赴かしめ、この分開において、分けられたもののうちに閉じ籠められていた統一、隠されていた閃光、露呈せしめる時、このような仕方で先ず理解され得るかつ個別的なるものが成立してくる。成立してくるものが自然のうちへ形像し入れられる。真の構想によってである。悟性は分かたれた根底のうちに隠れていた統一すなわちイデアを露呈せしめ呼び覚ます。分かたれた諸力は、後に肉体が形造される際の素材となる。この分開のうちに、従って自然的根底の深みから、諸力の中心点として成立する生きた紐帯の方は霊魂である。自然存在者の我意における両極。欲望及び神との合一。精神。神の精神と人間の精神。憧憬は自己の内に定立されたるイデアが顕現せんとするに対して、これを自己の内に閉じ込め、自己自身の内に帰らんと抵抗する。この抵抗を次第に克服してイデアは高い段階に昇りつつ遂に最高の段階において顕現する。同一哲学において、いわゆる「量的差別」を克服し、その種々なる段階或いは勢位を通って最後に自我が顕現してくるに等しい。容易に洞察し得ることであるが、完全なる出産に必要である憧憬の抵抗に際しては、諸々の力の最内奥なる紐帯は、段階的に起こる展開をなしてのみ解け行くのであって、諸力分解のそれぞれの程度において新なる存在者が自然から発生する。それに続いて起こる過程が、一つ一つ次第に自然の本質に近づき、遂に諸力の最高の分開において最内奥の中心が昇ってくる。このことを示すのは完備した自然哲学の任務である。総力の変異と分開とがなおも進んで、最後に元初的暗黒の最奥最深の点が或る存在者の内で全く光に変貌される時、この存在者の意志は、その存在者が個別的なものである限りやはり一つの特殊意志ではあるが、しかも自体には、すなわちすべての他の特殊意志の中心としては、根元意志すなわち悟性と一つであり、かくして今や両者から唯一の全体が生ずる。かく最も深い中心が光のうちに揚る。人間のうちには闇い原理の全力が存する。同じ人間のうちに同時に光の全力が存する。彼の内には最深の深淵と最高の天とが、すなわち両方の中心がある。人間の意志は神の萌芽、根底の内に存する神の永遠なる憧憬のうちに隠された萌芽である。深底のうちに閉じ籠めらた神的なる生命の閃光、神が自然への意志を決したときに認めた生命の閃光である。彼の内においてのみ神は世界を愛した。神のこの写像が、憧憬が光と対立に入ったとき、憧憬をその中心において捉えたのである。人間は根底から発現してきたこと（被造物的であること）によって、神に対して独立なる一つの原理を含んでいる。この原理が光に変貌されることによって、人間のうちに精神が戻ってくる。永遠なる精神〔すなわち神〕は統一すなわち言葉を自然のうちへ発現する。発言された実在的な言葉は、光と闇との統一のうちにのみ存する。発言された言葉のうちには、精神すなわち現勢的に実存するものとしての神が自らを顕示する。霊魂が両原理の生きた同一性であるとき、それは精神である。精神は神の内にある。神においては裂くべからざるその統一が、人間においては裂かれ得る。これが善と悪との可能性である。観念論は哲学の霊魂である。実在論はその肉体である。両者合して初めて一つの生ける全体を形成する。後者は前者が自己を現実化し血と肉を取る時の根底であり媒介である。神はその実存の根底を自己自身のうちに有する。これはすべての哲学の言うことである。自体的には再び根底に属し、従って自然一般は絶対的同一性の絶対的存在の彼岸に存するものの一切である。一切が発生してくる源たる円環のうちでは、一者がそれによって生産されるものが自身また一者によって産み出される。一切が相互に予想し合う。神は自己のうちに自己の実存の内面的根底を含み、この根底はその限りにおいて実存するものとしての神に先行する。同様にまた、神は根底の先者である。万物の自然に適合せる生成の概念、永遠なる一者が自己自身を産まんとして感ずる憧憬、一者と等しく永遠である。一人神のみが、神そのもの、実存する神が純なる光のうちに住している。神のみが自己自身から存在するからである。憧憬はまだなお暗い根底として神の現存在の最初の発動であるが、この憧憬に対応して神そのもののうちに一つの内的な反射的な表象が生産される。神がよって以て自己自身を一つの写像において視るところのものである。この表象は、神自身のうちにおいてのみ現実化された最初のものである。それは元初に神のもとにあり神のうちに産み出された神自身である。自己の内なる言葉を、同時に無限なる憧憬を感ずる永遠なる精神は、その精神自身である愛に動かされてその言葉を発し、その結果今や悟性は憧憬と相合して自由に創造する全能なる意志となり、元初には無規則であった自然を我が固有の領分或いは道具としてそのうちに形像するのである。
