俺も枠も完全統合同一致体だ。まだ少年のように若くて良い男だ。
今16歳脳、今16歳の軌跡道程の枠だ。16歳も軌跡道程ごと今中心核全枠であるなら過去の嘗ての何もかも全部今枠である筈だ。16歳も軌跡道程も宇宙最高の頭脳も過去の嘗ての何もかも全部今枠に完全復活する。過去への異常な執着、特定の人や物、事柄に対しての偏執狂的な拘り、妄想的憧れ、今日寝て起きたら今この瞬間にも自分が全くの別人になっているかを毎日毎日期待している。世界そのもの全体全面まで意識は広がる、それでも特定の「部分」に集まる意識がある。それが竹内であり薬であり過去のトラウマ、汚い他人、足腰の負担や中古の自転車、カルシウムのお菓子を食べ過ぎた事、といった事だ。仏教やキリスト教でも（勿論宗派による違いはあるけれど）、感覚的現実世界は些末な派生的世界、重要な根幹はプラトンのイデア的超感覚世界、神と一つになるだとか己の中に世界の根源、宇宙の原理を見出す、全体との合一、そういった事だ。どんな偉大な宗教の創始者だって神秘的体験をした。結局自分の中の内的世界だけ重要なんだ。経済学者が現実に自分の理論の実践どれだけ出来るかなー、「理論の実践」キャンパスに絵を描く、建築家が家やビルを建てる、それでも経済学者の実践は凄い大きい。学者や研究者が強い権力の政治家になれると竹中平蔵のように「自分の理論の実践」が出来る。理論と実践の一致は心地良い。学者が自分理論を実践出来るのは物凄い気持ち良い。スピノザの万物一体観は人間を否定して万物を唯一実体に帰する、ゲーテのそれは万物を人間において見る。ライプニッツのモナド論においてのように一々の個物が実体として不滅的よりは、個物は一般の中に没入する。ゲーテの行為の世界の底にあるものは、カントやフィヒテのそれの如き当為より解脱である。友の眼の如く友の声の如く我々の魂を慰める。ノヴァーリスは形が情のリズムの中に没する。ゲーテにおいては内も外も有するものは有るがままにある。何物もなき所から来り何物もなき所に去り行く。無より無に入るところに微妙なる人間の響がある。ゲーテの万物一体観はスピノザのそれの裏返し、万物一体観の上に立てられた彼の人生観はストア学派の賢者を想起せしめる知的愛よりはマリヤの愛、永遠に女性的なるもの、中世の芸術家は醇朴とか純真によって神に近づこうとしたが、レンブラントは苦悩、不安、優しさ、喜びを通して、即ち全生命の途を通じてそれに近づこうとしたといっている。ヴェルテル的苦悩よりの脱却を求めた壮年のゲーテにローマがローマ悲歌を与えたが、現実よりの脱却を求めたゲーテに東洋が西東詩集を与えた。歴史は単に過去から未来に向かって流れるよりは、真の歴史は未来から過去に向って動くものの逆流である。歴史は永遠の今の中に廻転しつつある。歴史が永遠の過去の内に消されると考えられた時、すべてが永遠の影としてギリシャ文化の如きものが考えられる。これに反し歴史が永遠の未来の中に消えると考えられた時、すべてが永遠への途としてキリスト教文化の如きものが見られる。歴史が永遠の今の限定として過去も現在において未来も現在において消されると考えられる時、すべてが来る所なくして来り去る所なくして去る、有るものは有るがままに永遠である。我々の育まれた東洋文化の底にはかかる思想の流が流れている。
