個人単体としての枠の力も能力もそのもの全体全面から俺から力をエネルギーを受け必然的に絶対圧倒超人的に異常非常に高い。宗教の概念は心を惹き付け感覚や意思決定に影響を及ぼす。感性的な人間のもとでは宗教もまた感性的である。客体的宗教は信じられる信仰である。そこに働く力、知識を追い求め考え抜き保存し信じもする力は知性と記憶力である。客体的宗教には実践的知識も死金として含まれる。客体的宗教は頭の中で秩序立てられ一つの体系にもたらされ一冊の本に表現され他人の前で講義される。主体的宗教は感情と行動の内にだけあらわれ、ある人間が宗教を持っているということは、彼の心が神の行為や奇蹟や接近を感じ、自分の本性や人類の運命の内に神を見、神の前に跪き、神への感謝と讃美を行為であらわし、行動するにあたっては善であり賢明であるかどうかを気遣い神の気に入るか神が行動の動因になっているかという点に何にも増して気を使い神に感謝する。主体的宗教は生き生きしたもの、存在の内面から外に向かう活動である。主体的宗教が個人的なものだとすれば、客体的宗教は抽象物なのだ。主体的宗教は自然の生きた書物、あらゆる種類の生き物が一緒に住んでいるが、客体的宗教は、自然が分離したものすべてを唯一つの目的に従って秩序づける博物学者の標本室である。自然の中では無限に多様な目的が友愛の絆のうちに組み込まれていたのに。どんな宗教でも主体的にも客体的にもなる。意識の発生と共に初めて無限に自由な恣意を弄ぶ自我と純粋な意思の内容たる善とが分離してくる。自然的統一を廃棄する認識は原罪だが、それは永遠の出来事なのである。人間だけが精神、つまり自覚した存在たりうる。原罪はまさに人間が人間となる為に通過する永遠の神話である。認識ないし意識の発生と共に自然状態から離脱し、やがて真の自然に神的な世界に帰っていくというこの壮大なヴィジョンに、後期へーゲルの歴史眼の逞しさの一端を見る。人間はここでは認識ないし意識を持つことによって真の意味で神の境域に達する資格を獲得するとされていて、そうした宗教観に人間学的な光を当てれば、人間の無限の本質についての意識が宗教だ、というフォイエルバッハのテーゼがそのまま浮かび上がってくるように見える。実際にはへーゲルはフォイエルバッハとは逆に神の活動の対象化されたものが人間だという考えに傾いていたけれども。自然状態からの知的離脱を悪として痛みとして感受しつつ、人間の発展にとってその悪、その痛みを一つの必然的な過程と見なすという視点、認識ないし意識が悪であり分離であるという後年の断定は、へーゲル自身にとって、自己と現実との関係の転変を昇華した思想的命題であったといえる。啓蒙とは人間が自己の未成年状態を脱却することである。もし行動や生活を本当に揺り動かす知性があるとすれば、それは学問的な形式を整えた知識よりは、心の奥底から滲み出るような知恵である。知恵は魂を高め魂は経験を通じて様々な意見や感性の印象に自己が依存することを反省しつつ高まっていく。知恵が実践的な知恵である場合にも、自惚れの強い派手な知恵よりは落ち着いた暖かさと柔らかな火を備えている。知恵は心から溢れ出る。人生の表舞台からは隠退しながら鋭い目と耳で世間の動きの大筋だけは確実に掴み事態の紛糾する中にあってその行く末を静かにしっかりと見通す老人の年齢と経験の重みをずっしりと感じさせる知恵。学問が抽象的な観念世界への飛翔を促すとすれば知恵は日常生活への帰還と沈潜を要請する。矛盾の体系的克服を哲学の最大の眼目とし、全世界を内に取り込もうとする壮大な体系を築いた弁証法哲学者へーゲルが、青年のほんの一時期にせよ、矛盾を矛盾のままに投げ出す凡そ非体系的な知恵を全面的に称賛していることは記憶に留めておいてよいことである。体系的知識の典型が多分数学であった。命題の抽象的一般性や論理の一貫性という数学の特質のうちに、へーゲルは学問的知識の冷ややかさ、非経験性を読み取っていた。哲学が真の学問として成立するためには数学的認識を超克しなければならない。数学の明証性、厳密性が、その目的や対象的素材を限定することによって初めて獲得されるものであること、哲学は世界の全体的把握を目指す。この観点を論理学の体系に引き移して言えば、世界全体の本質形式を表現するとされる、存在論、本質論、概念論の三段階図式の中で、数学的認識は第一の存在論の領域だけにその活動の場を見出す。根拠を失ったへーゲルは現実の世界と観念の世界との間に引き裂かれる。その分裂を最終的に克服するものとして、へーゲルは哲学の全体性に賭けた。人間生活に発する統一の力が消滅し、様々な対立者が生き生きした関係や相互作用を失って自立してしまうとき哲学が必要になってくる。哲学が必要かどうかは偶然に左右されるが、分裂が目の前に与えられている場合には、固定化された主観と固定化された客観との対立を廃棄し、既に成立している知的世界と現実世界を一つの生成過程として、既に生産されたその存在を一つの生産過程として、把握する試みが絶対必要となる。無限の生成活動と生産活動の中で、理性は分離されたものを統一し、絶対的分裂を相対的分裂へと追いやる。哲学の要求とは統一の要求である。現実の分離、分裂、対立が啓蒙思想を生み、カントやフィヒテやシェリングの哲学を要求していることを洞察できるまでに、へーゲルの歴史眼は鍛えられていた。
