千年は汝の前には一日の如し。
うわー、やっぱり立ち上がると物凄く大きいなー。こういった本の思想や哲学が生きる指標、思考の助けになることは沢山あるけれど、それでも本質的な問題解決には遠いか。世界が知識の内容だった。この内容は自己洞察による人間的理性から生じたものであるから自己活動的になった。色々の対象が一度び精神に意識されるようなことになれば、即ち自意識の自立性対立性が強くなって精神がこういう関心に没頭する。主体は、ただ自分の本質との統一という意味でのみ自分を知った。あらゆる異なる形態の統一、ただ一個の精神、異なる諸契機の中に自分を示現しハッキリと自分を刻印する。哲学は一時代の思惟と概念として先天的ではあるが、本当は同時に結果でもある。思想は同時に生産されたものだから、思想は自分を生産する生命的なものであり活動性である。自分を自分の中に集中する。精神は自分の到達した自意識の各特定の段階の原理を、いつもその多くの面をもつ富〔版図〕全体の中で完成すると共に全体の中に弘布した。哲学は、これらの多様な側面の一つの目的から作られた一つの形式である。それは精神の全形態の概念であり全状態の意識であると共に全状態の精神的本質である。自分を思惟する精神として存在するところの時代の精神である。多彩な全体は単純な焦点としての自分を知る概念としての哲学の中に自分の姿を写す。すべて共同に同一の共通な根底、時代の精神を持ち、一個の特定の本質、一個の特定の性格、一個の状態である。あらゆる側面を貫徹し、他のそれぞれのエレメントの中に自分を表出する。すべての部分に分れていながら互いに矛盾するように見えようと全体として一個の状態なのである。文化は一般に一般的諸観念と諸目的とから、即ち意識と生活とを支配するそれぞれの領域の精神的な力の全範囲から成る。意識は原因と結果、力とその発現などの相関において動く。その知識と観念はすべて、このような形而上学によって貫かれ支配されている。すべての理念はそれ自身の中にありながら定有の中に現れ思惟のエレメントの中にありながら外面性の中に現れる。その意味で純粋な哲学は、思惟をエレメントとしながら、時間の中で進展する実存として立ち現れる。つまり、この思惟なるエレメントは、それ自身は抽象的なものであるが、個別的な意識の活動という形をとる。精神は、それ自身において普遍的な具体的な精神である。即ち、この具体的な普遍性は、あらゆる発展した様相と側面とを包含しているが、この全様相と側面との中で精神は理念に従って自分の対象となるのである。その意味で、精神の思惟的な自己把捉は、同時に発展した全現実性によって充たされた進展なのである。それは実は個別的意識の形成の沃野を足場にして世界史の中で自分を演出する普遍精神として現れるものである。特定の形式の枠の中で自分の世界を形成し状態を完成する。多様性は流動の状態にある。それは本当は発展の運動の中にあるものとして過程的契機として把捉される。諸形式は形式全体の部分をなし、それらは相合して全体を形成するところの根元的理念の諸規定なのである。これらの規定が綜合され契機となる。膨張の後に収縮が現れ、それらの出発点であった統一が現れる。この進行は絶対的目標をもち、精神が自分の意識に達して解放されるまでには多くの曲折が必要である。世界の行程が理性的だという偉大な前提は摂理に対する信仰である。世界精神は自身が時間の外にあるが故に、即ちそれが永遠であるというまさにその故に、時間は十分にもっている。哲学史の全体は、それ自身必然的な首尾一貫した進行だということ、即ちそれ自身理性的で、自分の理念によってア・プリオリに規定されている進行である。各哲学は必然的にあったし、今もやはり必然的にあるということ、すべては唯一の全体の契機として肯定的に哲学の中に含まれている。最も新しい哲学は、あらゆる先行する原理の結果である。連続的覚醒の行為、過去の自分も過去の出来事の記憶も今に生きて居て変化し続ける。思惟の中に構成された思惟の獲得物こそ精神そのものの存在を形成する。全心魂と全心情とを打込んで行動する。発展の進行は進んで規定することであり、またこの規定することは理念が自分自身の中に深まることであり、自分自身の中での理念の自己把捉でたあるから、従って最も後の若い新しい哲学は、最も発展した豊富な深い哲学である。最後の哲学の中には、一見過去のものであるように思われるすべてのものが保存され包含されている。最後の哲学はそれ自身歴史の鏡である。始めは最も抽象的であり、進んで規定して行くものとしての前進運動から生ずる最後の形態こそ最も具体的な形態である。ヨリ後の時代のヨリ発達した哲学は本質的に先行する思惟的精神の諸々の労作の結果だということ、全議論の精神をなす。各形態は、それぞれの発展段階であり、しかもその各段階は、それぞれの価値を持つ。発展が進むに連れ各形態は従属した契機となる。各哲学も行程の全体の中では特殊の発展段階であり、その特定の位置を持つ。そうしてその特定の位置において各哲学は自分の真の価値と意味とを持つ。哲学は精神の自分自身についての思惟であり特定の実体的内容である。各哲学は、その時代の哲学であり、精神的発展の全連鎖の中の成員である。精神は自分自身を認識しようと欲する。「全体」に一つに合一し成れれば、引っ張り引き上げられる。思想の進展における異なる段階の生起は必然性の意識をもって見るとき、はじめて明らかになる。各々は順次、必然性に従って出て来るし、また必然性に従ってのみ特定の規定と形態は現れることができる。この生起の唯一の在り方、即ち諸々の形態の由来、諸規定の思惟的認識的必然性を叙述することこそ、哲学の課題であり仕事である。精神の存在は精神の行動である。精神の行動は自分を知ろうとする行動である。自分を自分自身に外的なものとして定立する。自然はそれがあるがままにある。その変化はただ繰返しであり、その運動は単に循環である。自分を知るかぎりにおいてのみ精神としてあり、汝自らを知れ、精神の本性を表す絶対的命令である。意識は本質的に、私そのものが私にとって対象であるという意味を含み、この絶対的判断〔原始分割〕によって、私の私自身からの区別によって精神は自分を定有とする。定有と時間における存在とは、それ自身も本質的に有限的である個別的意識一般の契機であるのみならず、また思惟のエレメントにおける哲学的理念の発展の契機でもある。理念はそれ自身の中にありながら定有の中に現れる。思惟のエレメントの中にありながら外面性の中に現れる。時が経つほど時間が流れるほど、全部の記憶が鮮やかに当時以上に超現実的に甦って来る・・心の傷が深く抉られ血が流れ出す・・なんで昔を思い出すと嫌な事ばかりが思い出されるの？
