即自有→向自有→即且向自の弁証法的過程は、即自が向自を経て最初の即自（即且向自）、即ち自分自身に帰ることである。
即ち向自を経ることによって自分自身の真相を明らかにして、自分の所に自分の許にあることである。即自有と向自有とは活動性の契機となっており、行為は両契機を自分の中に含み、行為は真に一具体者となっている。私は真理を伝えるために、この世に来た。この真理などというものは我々には分りきった、古臭いものだ。我々はもっと進んでいる。真理を認識するなどというようなことが、もはや問題でありえないことを我々は知っている。我々は、そんなことは卒業〔超越〕しているのだ。〔あまりにも簡単に〕超越している。歴史の結果の示すものが互いに対立し矛盾し反駁する種々の哲学の多様な発生、多様性こそ哲学という学問の存在に絶対的に必然的であり、また必然的であったということ、つまりそのことこそ哲学に本質的だということである。哲学は真理を思惟的に概念的に捉えることを目的とするもの、思惟する精神の運動には本質的に関連があり、しかもそれは理性的〔合理的〕に行われる。世界精神に対するこの信仰をもって我々は歴史に哲学史に向かう。真理は唯一、抽象的、形式的、ヨリ深い意味から見ると出発点、すべての他のもの、自然の全法則、生命と意識との全現象の流れ出る源泉、唯一の真理の反映である。哲学の目的は、これらの全法則と全現象とを、その唯一の源泉から概念的に把捉するために、即ちこれらのものの由来をそこから認識するために、これらの法則と現象とを外観上逆の途において、その唯一の源泉に還元することである。それ自身において規定された思想であることを認識する。すべての問題を発展という唯一の規定の中に総括することができる。発展ということが分れば、他のものは皆自ずから明らかになる。即自的なものの実存への進展は変化である。即自的なものが全行程を支配するから同一のものが存続する。すべての結果は原因の中に既に含まれている。実存へ自分を実現することの根拠は、自分を発展させるという衝動を持つこと、この発現は目標をもつ。即ち、その最高の完成、初めから定まっている終局は果実である。つまり萌芽の〔再〕生産であり、最初の状態への還帰である。萌芽は再び自分自身に還帰し、その出発点であった統一に戻るためにのみ、自分自身を生産し、自分の中に含まれているものを開示しようとする。自然物においては勿論のことであるが、始めをなす主体と終結をなす実存物（前者は種子、後者は果実）とは二種の異なった個物である。この二重化は一見、二つの個物に分裂するかのような結果をもつが、内容的には二つは同一のものである。始と終とが合致する。自然における萌芽のように精神も自分を他者とした後、再び自分を統一とする。まず即自にあるものが精神に意識されて〔精神に対するものとなって〕来る。そこで次に、精神が自覚的〔向目的〕になる。両者は即自的に同一の性質を持ち、向他有であり向自有である。自分に対して他者をもつものは他者と同一のものである。ただこうしてのみ、精神は自分の他者の中で自分自身の許にある。それ故に精神の発展は、精神の出発と精神の開示〔自己分析〕とが同時に精神の自己還帰であるというところに、その特性をもつ。この精神が自分の許にあること、この精神の自分自身への還帰が、精神の最高の絶対的目標だと言うことができる。精神はただこのことだけを望み、天上と地上に起る（即ち永遠に起る）すべてのもの、即ち神の生命と時間的になされるすべてのものとは、精神が自分を認識し、自分自身を自分の対象となし、自分を見出し、自分自身を自覚し、自分を自分と結合することに向っての努力にほかならない。精神は二重化であり疎外である。しかし、それは精神が自分自身を見出しうるがためであり自分自身に還帰しうるがためである。このことによってのみ精神は自分の自由を獲得する。本当の我が物、真の自分の信念が現れる。具体者の概念が発展の概念と結合されると具体者の運動が生ずる。区別の真理は統一の中にある。理念が抽象的だとすれば、最高の存在、このような神は近世の産物である。真なるものは、むしろ運動であり過程であるが、しかもその中にあって静止である。ここに初めて完全で具体的な統一が立ち現れる。各部分は等しく全体が持つ全特性を持ち、各点において、その全性質を一様に含んでいる。我々は一つのものの中に連続性と点性との両規定をもっている。形成されたものは必ず自身がまた材料となる。精神は、その自分への内行〔自分の内に帰って行くこと、自己反省〕にあたっては概念をエレメントとして自分を掴む。その精神のエレメントであり精神自身であるところの概念を、即ちこの精神の形成要素を、この精神の存在を、精神は新たに自分から分離し再び自分の対象とする。そうして新たに、それに自分の活動を向ける。精神の思惟がそれに向かうことは、その思惟に思想の形式と規定とを与える。このようにして思惟の行動は前に形成されたものを、もう一歩進んで形成する。それに一層の規定を与え、それを自分の中でヨリ規定されたものとする。一段と発展したもの、一段と深化したものとする。この運動は具体的なものとして諸々の発展の一つの系列であり、直線状をなして抽象的に無際限に進行するよりは、自分自身に還帰する円環と考えられる。この円環はまた円周として非常に多数の円環をもっている。それらの円環の全体は、それぞれ自分に還帰する沢山の発展郡の一大組織なのである。それ自身において規定されている真なるものは発展しようとする衝動をもつ。ただ生命のあるもの、精神的なもののみ自発的に活動し自身で発展する。理念はこのように、それ自身具体的で発展するものとして有機的体系であり沢山の段階と契機とを自分の中に含む全体性である。哲学は、それ自身この発展の認識である。しかも概念的思惟として自身が、この思惟的発展なのである。だから、この発展が進むだけ益々完全になる。発展の分散解示は内部への進行でもある。一切を包括するものとして存続している。哲学的理念のその発展における進行は、自分の中に入って行くことであり、自分を自分の中に深めることである。深いということは内包を意味するように思われるが、ここでは最も外延的なものが最も内包的なものでもある。精神は内包的であるほど益々外延的であり自分を拡張している。発展としての外延は散乱や分解よりは団結である。この団結は拡張団結の度が大きくなるほど益々力強く内包的となる。ヨリ大なるものは対立と分離とのヨリ強いこと、より大きな力はヨリ大きな分離を克服する。生きた個人の中に一個の生命が一個の脈が全四肢に搏動しているように、全体の中にも、そのすべての部分の中にも唯一の理念がある。理念は中心点であり同時に円周である。理念は光源であり全拡散において内在的に自分の中に留まる。
