和田とやり捲ってる映像も追浜古本屋店員も林彩も誘っていればの後悔も辛くて堪らなかった時期も、またしても「人生たられば」が増えてしまった、時計の針を巻き戻したい。抗コリン性？老人班を沈着したベータアミロイド蛋白質を神経繊維の縺れを死滅した脳細胞を抜き吸い取り出し取り除く。全部の字は宇宙へ飛んだ、脳も心も骨髄ごと引っ張り引きずり出して培養増殖自己投与で再生しされている。この地球を埋め尽くせば宇宙へ飛べる、現実世界を埋め尽くせば全ての願望も叶う、骨髄も女子供も宇宙もだ、枠を埋め尽くし体外に飛び出た様に。16歳から軌跡道程から中心核として史上最も優れた今枠脳心身体、史上全枠脳心身体である。治験も骨髄も駄目に脳内違和感は何もかも薬害？全部解決しされている。超越論的人格性は概念を乗せる車、概念の根源である。実践哲学はこの人格性を本体人として取り上げる。人は客観として有り主体として行動する。人は一面において自然物であると共に他面において実践的に存在するもの、即ち自由の主体、純粋感情において直接に顕現する。このような二重性において人を規定するのが「人の全体的規定」、当為の意識はこの二重性において基礎付けられる。人性の原理、「汝の人格における及びあらゆる他の人格における人性を常に目的として取り扱うように行為せよ」人の本体的性格から見れば絶対的価値の保有者、「人はそれ自身における目的（自己目的）として存在する」その経験的性格から見れば人もまた一つの自然物であり従って手段として用いられ得る。手段的自己目的的な二重構造を持つが故に人はこの二重性において取り扱われる。「人の全体的規定」の表現、自他不二的な人性が人格に具現せられている限りにおいては個別的な人格においても自他不二性が現れる。人間の全体性が把捉せられ、人を二重性格において規定したことは、人をその個別性と全体性とにおいて「人間」として規定する、人間の学となる。我は可想人としての権能において汝を手段となし、その汝が同時に可想人として我にとってもまた究極目的である限り、我は汝の手段となる。汝の側から見ても同様である。従って我と汝の関係は互いに手段となり合いつつ互いに目的となり合う関係である。手段となる側からは自他は差別的であり目的となる側からは自他は不二である。差別無差別個別全体的な関係、カントは人性の原理を共同体的客観的法則と呼んだ。彼は人を自己目的として規定しつつ複数として取り扱い、かかる個別的にして多数な目的の体系的結合を目的の王国と考えた。彼が究極目的を複数として現し「理性的なるもの（複数）の世界（可想界）が目的の王国として可能である」目的の多数性に対して全体性は「普遍的立法意志としての個別的理性者の意志の理念」とせられる。超個人的な理性意志の理念が人間の全体性に代わる。個人的意志における超個人的意志の現れが当為、意志の自律なるものは個人における当為の意識から見出される。カントの倫理学から社会主義を見出すことは一面において社会主義を理想主義の上に立て、他面においてはカントから表面上の個人主義を洗い去る。後者によってカントの人性は人の全体性であり従って共同社会であるとせられる。前者の立場からは共同社会が厳密に理念として取り扱われる。それは「有るべきもの」としての社会、現実の社会の当為的根柢となる。ソクラテスが倫理学を考え出したとき彼は同時に倫理学においてあらゆる哲学の中心点を見出した。それまでは哲学者たちは同時に数学者であり自然学者であった。ソクラテスは自然についてはナザレ人の如くに語る、人から逆に引き返して初めて自然への道が通ずる。倫理学は人の学として哲学の中心になる。そうしてこの中心において初めて哲学は独立性と特性を、やがてまた統一性を獲得する。倫理学の対象は人であるという思想の力と真理とは全ての傾向の内に籠もっていた。かく倫理学が哲学の中心になると共に「人」が哲学のあらゆる内容あらゆる価値の中心となった。哲学の重心は哲学の存在の根、哲学の権利の源は倫理学を通じて人において求められる。純粋思惟の最奥の根柢が根源であり、そこから無の迂路によって、すなわち無限判断、連続の法則によって内容を産出するごとく、純粋意志もまたその根源から連続によって産出する。数学の判断は先ず第一に実在性の判断であるが、この判断において根源よりの産出は「無限小」「微分」による実在性の産出、無限小が自然の実在性を意味するごとく個人は道徳の実在性を意味する。多数性の発生は時間の範疇による。時間は未来を根本的な働きとすることによって過去を分出し他者を成立せしめ従って内容を産む。ここで数は加えることの出来る一となり加えられたる多数となる。多数性の意味が社会の概念となる。社会の理念においてはその成員の個別性、法律や文化の制度の個別性は前提として不可欠、かかる多数は無限に加えられる数、無限な加法にまとまりをつけるのが総体性の判断、それを無限級数が現している。積分は無限級数が無限小と結合している総体性、かかる積分は数以上のものである。時間によって産出せられた内的内容も空間の範疇による外の産出が含まれている。そこで数としての内容が自然としての内容になる。時間は小やみなき未来を産み従って差異性を産出し、空間は共在であり総括を産出する。そこに総体性が成立する。総体性が道徳の世界において共同社会として把捉せられ特に明らかに国家において現れて来る。実在性の判断によって産出せられた個人、多数性のそれによる社会は、この国家においてその真の統一に達する。これが論理学において説かれた人の概念、個別性、多数性及び総体性における人の概念、倫理学は更に新しく何を加えるのか、思惟の問題は客体の意識であり意志の問題は自己意識すなわち自覚、意識の統一は概念の統一における客体の統一、倫理学は主体の統一を取り扱う。これが特に「自覚」と呼ばれる。自他なるが故に相互に連関し相互連関において自己意識を形成する。自他合一が初めて自の意識を純粋意識のそれとして生産する。人が単に個人であるかのごとく見えるのは仮象、個人が多数の個人であることによってのみ個人たり得る。多数の個人は一つの統一を形成し、法人は単なる総和以上に総体性に基づいている。多数の意志は一つの全体意志に合一する、その根拠は多数の人格が一つの全体性に合一するからである。決議は個々の意志を統一的意志に総括する全体意志である。かかる全体意志が法人の概念を形成し、法人における全体性は人の総体性を開示する。法人の自覚は総体性を実現し得る意志の統一の自覚である。この最高の統一を国家の概念において認めた。法人の自覚は国家の概念である。国家の概念は倫理的自覚の最も精確なる模範である。「自覚」は個別性多数性総体性における人の概念に展開する。人の概念はかかる複雑な形を現し、個別性と多数性（特殊性）及び総体性、すべては同時に一となって。道程のあらゆる一歩一歩において相伴い三者の合一においてのみ人の道は存する。
