嘗ては元々一つだったんだ、一つに成り戻るだけだ。仏教において、感性的欲求〔渇愛〕は世の禍の原因でもあり、死の原因でもあるからである。人間は欲求によって感覚世界に束縛され、その世界において誕生と死との循環に隷属している。人間は欲求の克服によってこの鎖から解放され、誕生と死との彼岸に到達する。仏陀は入滅の前に、あらゆる意識状態を経過して滅尽定にまで到達した後に、後退して第一静慮の段階にまでたち戻り、そこから改めて第四静慮に上昇し、次いでこの第四静慮からかの偉大な彼岸〔涅槃〕に入る。既に現世において達成される道の成果を更にいくつも枚挙しているが、これらはいずれもこの第四静慮を出発点とし前提としている。それは、あらゆる欲情〔煩悩〕、感覚的および超感覚的な対象についてのあらゆる表象、悦楽とか苦痛とかというあらゆる感覚、そのようなものから完全に解放されている段階なのである。千里眼〔天眼〕と高度な精神力ないし超感覚的完成〔神通力〕の能力として描写されているすべてはこの状態から生ずる。仏陀になるためには、神々でさえも天上界からくだって人間として生まれ変わる。人間の身として、最高の福祉、最高の完成にあずかる。仏教ではマーラは神々と等しく現実的に存在する。神々も修行者が瞑想している時に超現実的実在として出現する。修行者が瞑想の精神的高みにのぼろうと決意すると、神々はそれを歓迎し、彼の努力に好意的な関心を寄せる。修行者は瞑想という安全な城に到達するよりも以前に、有害な霊の威力に対抗する試練に耐えねばならないのだが、それはいわば太古に、超感性的領域において、神々と神々の敵である悪魔との間で戦い抜かれた戦闘の映像なのである。あるとき彼の前に神々が色彩現象として姿を現し、その現実は彼自身の心霊的表象に応じて姿を変え、その神々は彼が見たいと欲する通りの色彩をした姿を見せた。ブラフマン神の世界にのぼって行くには、予め瞑想の中であらゆる生類に対する愛〔慈〕の考えをもって、あらゆる方角にくまなく行き渡るっているのでなければならない。既にこの現世の生涯において、あらゆる生類に対する愛と同情（慈悲）とがみなぎっている瞑想はブラフマン神に至る道である。瞑想の最高完成とされるのは、修行者が道のあらゆる段階を経過し、瞑想のあらゆる成果を獲得した後に、自分の内面的静慮の中で愛と同情と同慶と平静〔慈・悲・喜・捨〕とのあの心情を全世界に向かって放射させる時である。そういう意味では俺こそが枠こそが最大最高最強最美最優秀だ、己の意識だけ気だけ領域で全世界中を埋め尽せる。仏教では慈愛ないし愛情は放射によって効果のある霊力なのであり、ブラフマン天上界の神々はいわばこの放射と直接に接触する。修行者は出家することによって霊的生活に入り、次に道の最初の予備的諸段階を克服してから霊的静慮に到達し、次に瞑想の中で一段ずつ昇るうちに、修行者にとって内面的発展が行われ、その発展にはあらゆる諸領域の神々が関与する。今はまだ予備準備段階だ。悟りを開く前、まだ菩薩であったころ、仏陀は緊張した瞑想修行により洞察力を一段一段と高めて行き、“神々”〔諸天〕と名づけられる超感覚的生類の明確な直観の度合いを次々に高めた。はじめのうちはただ光明を知覚することができたのみであった。精神統一が高まるにつれて、彼は高度の洞察的直観〔智見極大明浄〕にまでのぼり、今や形状色彩の表象を持つ。それから更に根気よく修行しているうちに、光明を見て色彩形状の表象によって現れる神々と対話することができる。緊張した瞑想の苦闘を更に続けているうちに、追求していた霊感がやってきて、今や自分と対話をしている超感覚的生類たちがどの神々の序列に所属しているか、ということまでも判る。最後にもう一段と修行を高揚すると、この最高の直覚さえも獲得する。彼の洞察力が到達した段階においては、光明を知覚し、色彩形状の表象を持ち、これらの現象によって現れてくる神々と対話をし、彼らがどの序列に所属しているかが判る、というのみではなく、今やそれ以上のことさえも判る。すなわち、その神々がどのようなカルマの結果、以前のある生存段階から去ってその現在の段階に達したのか、その寿命はどれだけの長さか、その生涯にはどのような楽なり苦なりを経験するか、あるいはまた、彼自身が既にいつか以前の発達段階においてそれらの生類となんらかの関係があったかどうか、というようなことさえも判る。神々についてそのような明瞭な洞察力を得ることに成功したときに、はじめて仏陀として最高の完璧な悟りを開くことができた。
