常に全時空間ごと意識しているから全部の過去も今に同じだ。
ちょっと好みの女性にも恥ずかしくて話し掛けるのも全然無理？でかくて立派な身体して何て奥手な奴だ。全世界中インターネットという舞台で史上最も一般個人の存在感が高まっている、その時代に個人単体枠は果たしてどれほどどれだけの事が出来るか？無限に∞無限大に巨大きな事が出来る。全体全面ごと人一人包み込んでしまえる包容力ある男性が彼だ。そう、だから、ブッシュが京都議定書から離脱した時点で、というかブッシュが大統領になった時点で石油と石油元売り企業株価が上がる、ブッシュはアラブと仲悪いけどアラブが石油高で潤う、与謝野馨が閣僚から外れた時点で円安に振れる、といった事が考えられる。時期により状況によりどの金融商品が上がりそうか見極められればなー・・もっと視野をグローバルに広げ世界中の情報ダイレクトに集められれば良いのだけれど如何せん英語力が足りん。日本トップ東大でも論文などの研究成果で世界15位から19位に落ちたってねー・・グローバル化がますます進むと日本語圏日本は取り残されてしまうか、日本語の壁に守られてる部分も相当あるのだけれど。個より全として個体より全体として枠より16歳から軌跡道程から中心核からそのもの全体全面まで俺として生きる。全身の筋肉が大きくパンプアップビルドアップしている、筋肉でパンパンに膨らみ張り詰め固めている。今までに取り込み入れた膨大な全内容も組み合わせ体系的に構築する。『人間』は大主著『シンボル形式の哲学』の簡にして要を得た縮約版、全体が再構成されると共にアメリカで得た新たな知見も存分に取り入れられており、最後の百科全書派、独創的哲学者であり優れた思想史家でもあったエルンスト・カッシーラー自身が自己の哲学体系を語り掛けたもの。彼は実体概念から関数概念への転換の中に自然科学的思考の発展を見定めた『実体概念と関数概念』やレッシング、シラー、カントおよびゲーテの思想にドイツ精神史の最良の部分を読み取ろうとした『自由と形式』を公刊して哲学者としての地歩を固めている。無際限の記憶力をもつと言われたカッシーラーの博覧強記ぶりはつとに知られている、その博捜を可能にしたのは書物の宇宙に喩えられるワールブルグ文庫であった。現代の百科全書派（アンシクロペディスト）という形容が相応しいその博識、ハンブルク時代にカッシラーは科学的知識を哲学的知識を哲学的思考の中心に据えるマールブルク学派の思想を離れ「シンボル形式」を基盤とする独自の哲学体系の構築へと向かう。シンボル形式という言葉が初めて使われたのは『アインシュタインの相対性理論』においてである。カッシラーは１９２９年にハンブルク大学総長に選出されたものの、３３年にヒトラーが政権奪取してワイマール共和国が終焉すると同時に大学の職を辞し、亡命を決意してドイツを離れた（同じ年にハイデッガーがナチスの肝煎りでフライブルク大学の総長となったことは記憶されてよい）。彼はまずイギリスに渡ってオックスフォード大学で教鞭を取り、次いで３５年にイェーテボリー大学に招かれてスウェーデンに移住し、そこに帰化して永住権を取得した。その後、４１年にイェール大学に招聘されてアメリカに渡り、４４年秋からはニューヨークのコロンビア大学で教え始める。カッシーラーの後半生はその殆どが亡命の旅路に費やされた。『人間』はカッシーラーが生前に刊行した最後の著作である。彼自身が「序」において「哲学的に特別な重要性があると思われる数点を集中的に論じ、私の思想を出来るだけ簡明に表現しようと試みた」彼の哲学的総括という意味を担うものとなった。その主題は人間、本書には神話から科学に至る人類の知的系統発生の歩みが、あたかも一個のビルドゥングスロマンのように描き込まれている。哲学が自己認識の学であるとすれば人類の知的自画像を描いた本書は正に第一級の哲学書だと言える。第一部「人間とは何か」ではカッシーラーの人間学的哲学の基本線が提示され、第二部「人間と文化」では神話、宗教、言語、歴史、科学といった多様な文化現象を巡って、彼の言う「人間文化の現象学」が展開される。それらの考察を通じて彼が取り組んだのは、精密科学の進歩と反比例して生じた人間のアイディンティティーの危機という事態であった（その意味で本書の企図はフッサールの遺著『ヨーロッパ諸科学の超越論的現象学』のそれと比較されてよい）。確かに、個別諸科学の驚異的発展は、生物体としての人間の在り方を細部にわたって明らかにした。またニーチェの「超人」、フロイトの「性的人間」、マルクスの「経済的人間」といった学説は、人間存在の深淵を新たな仕方で解明してみせた。しかし、カッシラーの言葉を借りれば「このような発展によって、人間に関する近代の説は知的中心を失った。我々はこれに代って完全な思想的無政府状態を与えられた」、二十世紀半ばの地点に立って辺りを見回したとき、彼がそこに見出したのは「中心の喪失」という空漠とした風景であった。こうした危機意識こそ本書を貫く通奏低音である。動物の世界が感受系と反応系からなる各々の種に特有の機能的円環を形作っていることを確認する。無論、彼の立脚点は、人間の行動を生物学的説明に還元する自然主義の立場とは無縁、逆に彼は感受系と反応系の間に人間特有の第三の連結、すなわち「シンボリック・システム」を見出す。この新たな機能を獲得することによって人間は新次元の実在の中に生きることになる。人間は物理的宇宙にもシンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。理性的動物という伝統的な人間の定義に代えてシンボルの動物という新たな定義を提起する。このシンボルの動物という定義こそは人間文化を統一的に理解するアリアドネの道標、カッシーラーが二〇世紀に遺した我々へのメッセージである。人間にのみ特有なシンボルという概念、動物の用いるサインまたはシグナル、カッシラーによれば、シグナルは物理的な存在の世界の一部、シンボルは人間的な意味の世界の一部、シグナルは個別的かつ実体的、シンボルは普遍的かつ機能的、シンボルのもつ普遍的機能を理解し身に着ける為には人間の個体発生においてもある決定的段階を経過する必要がある。人間はシンボルという魔法の鍵を手にすることによって宗教、芸術、哲学、科学へ至る道を歩み始め、プラトンの言うイデア界へと通じる扉を押し開いた。第一部がシンボルの動物としての人間の本質を論じた総論だとすれば第二部は人間文化の諸現象をシンボル形式の観点から解明した各論に当たる。そこでは神話と宗教、言語、芸術、歴史、科学の各領域について、人類の知的系統発生の歴史が百科全書派的を背景にしながら簡明に描き出されていく。思想家としてのカッシラーの面目躍如たる記述である。各章はそれぞれ完結した結構を持っており興味の赴くままにどの章からでも読み進める。人間の問題においてこそ、ソクラテスの思想を前ソクラテスの思想から区別される境界標が見出される。彼においては、あらゆる以前の問題が新たな知的核心に関係づけられている故、新たな立場から見られている。企業なら経営者から現場の末端まで個人単体枠である。明治初期の起
