弥勒菩薩は釈迦の説法を聞いてから１２年後に、兜率天という世界に昇ったといわれている。兜率天というのは仏教の世界の中心にある須弥山の遙か上の方のある神々の住む世界で、釈迦もこの世に生まれて来る前にはここに昇って下生の時期を待ったといわれている。釈迦と同じように弥勒も兜率天に昇り、現在はそこで諸天（神々）に教えを説きながら下生の時期を待っているといわれている。弥勒が遠い未来に我々の住む娑婆世界に降りてきて成仏する。弥勒菩薩は未来仏という性格から弥勒如来とも呼ばれる。。「曼荼羅」ないし「曼陀羅」は、サンスクリット語maNDalaの音を漢字で表わしたもので、漢字自体には意味はない（なお「荼」（だ）は「茶」（ちゃ）とは別字である）。maNDalaの意味については、多くの場合、次のように説明されている。すなわち、maNDaは「本質、真髄、エッセンス」などの意味を表わし、laは「もつ」の意であって、maNDalaとは「本質をもつもの」の意だとする。また、maNDalaには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源であるとする説もあり、中国では円満具足とも言われる事がある。インドでは諸神を招く時、土壇上に円形または方形の魔方陣、マンダラを色砂で描いて秘術を行う。色砂で土壇上に描くため、古い物は残っていないが、チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。「曼荼羅」の意味・・「マンダラ」という語は、英語ではヒンドゥー教やその他の宗教のコスモロジー（宇宙観）も含め、かなり広義に解釈されているが、日本語では通常、仏教の世界観を表現した絵画等のことを指す。「曼荼羅」はもっとも狭義には密教曼荼羅を指すが、日本においては、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土の様子を表わした「浄土曼荼羅」、神道系の「垂迹（すいじゃく）曼荼羅」など、密教以外にも「曼荼羅」と称される作品がきわめて多く、内容や表現形式も多岐にわたり、何をもって「曼荼羅」と見なすか、一言で定義することは困難である。密教の曼荼羅は幾何学的な構成をもち、すべての像は正面向きに表わされ、三次元的な風景や遠近感を表わしたものではない。しかし、全ての曼荼羅がそのような抽象的な空間を表わしているのではなく、浄土曼荼羅には三次元的な空間が表現されているし、神道系の曼荼羅には、現実の神社境内の風景を表現したものも多い。全ての曼荼羅に共通する点としては、(1)複数の要素（尊像など）から成り立っていること、(2)複数の要素が単に並列されているのではなく、ある法則や意味にしたがって配置されている、ということがあげられる。密教系の絵画でも、仏像1体だけを表わしたものは「曼荼羅」とは呼ばない。「曼荼羅」とは、複数の要素がある秩序のもとに組み合わされ、全体として何らかの宗教的世界観を表わしたものと要約できるであろう。人間の心霊は、永遠のイデヤを認識するとき、またその限りにおいて永遠の生命を獲得する。エロスは単に美しき少年に対する愛として人間の魂の内に存在し、また他の多くのものに対する愛として、かつ他の事物の内にもあるもので、一切の動物の体内にも、大地の産出する植物の内にも、ありとあらゆる物の内に存在する、これは我々の専門の医学から得られた認識である。要するにこの神は偉大な驚嘆すべき神であって、人事の事といわず神々の事といわず、一切の上にその勢力を張っているのである。一方においては身体の構成に必要なる要素を収容し（同化作用）、他方においてはこの目的に反する要素を排泄する（分泌作用）新陳代謝である。一者が分裂に傾きながら諧和調和している。宇宙の根底を成せる一者は分裂して相反することもあるも、万物の統一的相互関係の一端である。法は一切の滅びる者と滅びぬ者の王なり。イデヤは一切の対立関係を超絶せる絶対的なものである。彼の文章は人間のものというよりも、むしろ不死なる霊のものである。
