彼においては原因と結果が始まりと終わりが既に一致している。
枠自体の領域ごと広げ広がり拡大拡張拡充し16歳も軌跡道程も己に含めていく。
新プラトン主義の創始者，ギリシアの哲学者プロチノス。世界は一つの根元的な存在である「善なるもの一なるもの」の流出であり、この世のすべてのものはその現れであるという彼の体系は，古代末期における宗教的なものへの哲学の転回を代表するもの、キリスト教神秘主義に大きな影響を与えた。知性は把捉され感覚物のごとくに見るとするならば、知性は精神の上に君臨していて、精神の父とも仰がれる知性界、知性をもって静かな運動となし自己の内に万有を含み既に万有であるものとして不可分の多であると共に分別の明らかな多であることを認める。ひとまとめにされた多が直知される世界（知性界）、それは第一者に次ぐものである。理論上それの存在は人が精神の存在をも認めるとするならば必然的にそれも認める。一者、それは知性を存在性へと導き、本性は凡そ最善なるものの源泉となるがごときもの、存在を生む力として自己自身の内、それらが生ぜせしめられるより先のもの、一者と名付けるのは互いにこのものを表示するための必要に出ずる、この名称によって不可分なるものの思念に導き精神の統一を計る。あらゆるものの中の能力において最大のもの、それを無限のものとして考える場合にも能力が捕捉すべからざるもの、知性もしくは神の如きものであると考えても其れ以上のものとなる。知性によって把握される以上の一体性をもつものであると想像するにしても神以上のもの、自分だけであるもの、彼のものは、あらゆるものの中で最も充足的かつ自足的なもの、自足性によって一体性をも理解出来る。何にもせよ不足分をもつものというのは不足分を求めることによって始元を希求している。自己を保全するものを必要として求めている。自己充足者たるものが自己自身を識るために直知する働きを不足分として求める。彼のものの直観のうちに自分自身を忘れるところまで行く。彼のものに合体して、いわばそれとの交わりの如きものを充分に尽した後に帰って来て出来うるなら他の者にも彼処における合体交合の模様を伝える。神的なるものとの接触による自己充実。それはいかなるものに対しても、あらゆるものと共にあって、それと合体している。自己自身を識る者は自分がどこから由来するかということを知る。精神が自己自身を知り、精神の自然な運動は何かを巡る円環運動の如きもの、自己の中心を巡る、円はそれを中心として、そこから成立せしめられるようなものであることを知るならば、精神は自分が其処から出て来ているものを巡って運動するようにする。自分自身を其処へ持って行って、それに合体させることによって自分をそれに掛からせようとする。これに向って運動する精神が神々なのである。彼のものと接触合体したものが神であり、それから遠く離れて立つものが人間、雑多に分裂した人間であり動物なのである。過去の自己自分自身との合体でもある。精神の円、それの始元となるような性質のものがそれ自身の中にそれを巡って考えられるから、精神はそれをもとにしてそこから出て来ているから、別々に離しても一つ一つが全体をなしているというようなことも類推の一層の拠り所となっている。我々の一部分は肉体によって占められ、あたかも人が足を水中に入れて身体の他の部分で水の上に出ているようなもの、肉体の上に超出し我々自身の中心点において万物の中心点の如きものに接触して合体するわけで、球の中心点に含まれている最も大きな円それぞれの中心点が接触合体するようなもの、我々は其処において安定を得る。精神はそれ自体知性的な存在、彼のものはその知性すらも超越するもの、直知する者が直知されているものに対してもつ接触合体の仕方、それは相似性と同一性に基づいて直接そのもののところにあって自分の同類たるものと接触合体する。それらが互いに離れ離れになるのは分別相異と差別による。直接お互いのところにある。彼のものは一者である限りにおいて何時も直接そこにあり我々も直接そこにある。我々は彼のものを憧憬の中心にして、彼のものを巡る存在となることに努めている。最終目的を達成して安らいを得る。精神は、生命の源であり知性の源、存在の始めをなし善きことの因をなし精神の根となるものを直視する。それは永遠不滅、これらのものは其処から流れ出て来ている。我々の存在は、我々が彼のものの方に傾きさえすれば、それだけ存在度が多くなり、存在をよき存在たらしめるものもまた彼処にある。精神の憩い場、一切の邪悪から清められたその場所へ馳け上ることによって精神は邪悪を脱する。精神が知性に目覚めるのも其処において、真実の生というものも其処においてこそ生きられる。現在の生、神なき生というものは実は生命の影、生を模したもの、かしこの生は即ち知性の活動、この活動あることによって神々を生む。彼のものへの静かなる接触により美を生み正を生み徳を生む。精神が神にみたされることによって内に孕む。精神の終始するところである。始めは精神は彼処から出て来たもの、終りは究極において求められる善が彼処にあるから、精神は彼処に生ずることによって自分自身が本来あったところのものになる。精神は神から出たものとして神への愛情を抱くことは必然、精神は彼処にある限りは天上の清らかな愛をもつ、ここではそれは世俗的な愛欲となる。愛の対象として何よりも求めているものを獲得する。精神が既に彼処に到達し彼のものを分有し生活が一変して真実の生命を賄ってくれる者が直接その場にいることを知る。我々自身の全体をもって彼のものを抱擁し、彼のものこそ自己自身なのである。その自己自身は知性的な光明に満たされて光り輝く自己自身、光そのもの、清らかに軽やかに神と化したというよりは既に神であるところの自己自身なのである。地上から逃れ出る、この世からの脱出。論理以上に大いなるもの、論理に先立ち論理の上に君臨するもの、自己自身を見る者、自己自身に合体し既に一体となっている自己自身を感得する。見る者は見られる者、自分が他者となり、彼の国の一員として登録されている。自己を彼のものに所属させることによって一つ、中心を中心に合わせることによって円が一つになる。円は合することによって一つとなり離れることによって二つとなる。自分自身がまた一体者となる。肝を奪われたり神憑りにかかったりした時のように虚白の状態のまま静寂に帰す。自分が静止そのもの、美を急速に乗り越え諸々の徳さえ既に超越し、それらは不可侵の玄宮に参入した者が背後に残して来た宮の神像のようなもの、直接本物との交わり、没我（エクスタシス）、一体化、自己放棄、接触への努力、思念を凝らして彼への順応をはかること。源泉とも始元ともして合体が生ずる、神的なるものは精神として所持し得る。残されるのは、既に万物を超越し来った今においては万物以前であるところのものである。精神が自分自身の内に帰る。存在を超越した彼方に到る。自己を抜け出して模型に対する原型の如きものへと歩を移して行くとき行程の目的をそこに完了したことになる。この世の一切からの解脱、自分一人だけで一人だけを目指して逃れ行く。
