怒の根源の深さ、神の怒の神秘を感じる。
愛は統一であり融合であり連続である。怒は分離であり独立であり非連続である。神でさえ自己が独立の人格であることを怒によって示さねばならなかった。自己を集中しようとすればするほど自己が何かの上に浮いているように感じる。虚無の上に浮いて居る。世界をいくつかの言葉で表されたものは更に無数の要素に分解することができる。人間の身体も精神も、それらの要素と同じ秩序のものに限りなく分解することが可能である。一つの細胞にとって他のすべての細胞は条件であり、一つの心象にとって他のすべての心象は条件である。自己が世界の要素と同じ要素に分解されてしまうのを見る。世界は要素に分解され人間もこの要素的世界の内へ分解され、そして要素と要素の間には関係が認められ、要素も関係に分解されてしまう。形成は常に虚無からの形成である。古代は実体概念によって思考し、近代は関係概念或いは機能概念函数概念によって思考した。新しい思考は形の思考であり、関係概念と実体概念とが一つであり、実体概念と機能概念とが一つであるところに形が考えられる。現代の混乱といわれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。対立するものが綜合されるよりも混合されてゆく。この混合から新しい形が出てくる。混合は不定なものの結合であり、その不定なものの不定性の根拠は虚無の存在である。あらゆるものは虚無においてあり、且つそれぞれ特殊的に虚無を抱いているところから混合が考えられ、虚無は一般的な存在だけでなく特殊的な存在を有する。カオスからコスモスへの生成を説いた古代人の哲学には深い真理が含まれている。天真爛漫に現れる情念は常に或る美しさをもっている。思索は下から昇って行くものであるとすれば、瞑想は上から降りて来るものである。それは或る天与の性質を持っている。性癖となった瞑想は夢想か空想である。瞑想は思想的人間のいわば原罪である。先ず自己の個性を発見すること、その個性に忠実であること、そしてその個性を形成してゆくことである。人は愛と憎みとに心が分裂するという。感傷になると愛も憎みも一つに解け合う。運動は矛盾から生ずるという意味においても、感傷は動くより流れ漂うものである。すべての趣味と同じように、感傷は甘味で誘惑的、本質的にはただ過去にのみ働き、出来つつあるものより出来上がったものに対して働く。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。真理は出来上がって、そのあらゆる完全性において天から来る。人生において証明するということは形成することであり、形成することは内部と外部とが一つになることである。旅も解放も脱出も漂泊である。万の心を持つ人、内部に鬩ぎ相反対し矛盾する多くの心を見い出し愛し助け憎み合い相結合した。強くて頭の良い体の大きな背の高い若い男に包み込まれる・・嘗ての美貌の筈も、顔も何か不自然に長く凸凹になって来たし、髭が濃くなって来たし、心配だ・・顔も身体も若く美しくなること！！また意識の旅が旅行が出来るトリップできる。根本的な変質を余儀なくされた。彼も立派な男になった。恥ずかしい思い出には足元が崩れていくように存在して居ること自体居た堪れない、ムカつく思い出には腹立たしい。頭蓋骨は頭の殻、濁りは心の殻、鎖骨は体の殻、殻ごと全部取り外す外れる。本当に昔が今に返せるなら過去が今に来るなら過去の枠が今の枠に来るなら、また素晴らしく物凄く優れることも可能だろう。何がどういう以前に道は唯一本だけだ。無意識な必然的な展望の推移だ。それでも「女を抱けるのなら」まだ多少どうにかは・・あまりに人当たりに繊細で感じ傷付き易く不安定で見た目良く美しいのも時々な彼には難しい。女性への愛情は深く情熱的な激しいＳＥＸをします。放っとくと何時間でもそうやって己だけの世界に陶酔耽溺し遊び瞑想沈思黙考し考え込んでるのか、御前は・・これによって神の国の新しい倫理、またそれと共に新しい状態が実現される。この行為は一連の変革活動の最初の部分であり、この変革の超自然的終末は栄光に包まれた彼の「再来」であって、彼が自分の血をもって確証した新しい契約が彼によって成就される。彼の使命は神の国を実現すること、静けさと孤独の中にあって彼は自分の考えをまとめるために精神を集中した。栄光と挫折、彼の生涯は互いに対照的な二つの時期に分かれる。第一は成功の時期であったが、第二の時期は幻滅と失敗をもたらした。帰着した大いなる瞬間を感激に満ちた言葉で祝す。結局己の腕だけ力だけが全てだ。余計な事まで勘繰り過ぎなんだよ、お前は・・
