意識の中だけでなく現実にもそうなるという訳だ。
若鷲は独立に真理の太陽に向って飛び立つ。哲学は宗教を理解する。哲学は合理主義と超自然主義をも理解する。その上に自分自身をも理解する。概念は、まさにそれ自身において直ちに自分自身の反対であると共に、また他者の中において自分自身の自分との統一である。自分自身を対象とする思想は、また自分の形式に即ち思想自身の形式に自分を高める。哲学とは、普遍的内容として、あらゆる存在であるような思想である。哲学は一切を包括する存在者としての普遍者が把捉される所、或いは存在者が普遍的な形で捉えられる所、思惟の思惟が現れる所に始まる。思惟が自立的になる。思惟が自分の自由において実存する。思惟が自分を自然的なものから解放し直感への没入の状態から脱却する。思惟が自由なものとして自分の中に向い、それによって自由の意識に達する。自由な思想が絶対者を思惟し、絶対者の理念を把捉する。即ち思想が存在を把捉し（そうなると、その存在はまた思想自身でもありうる）、その存在を諸物の本質として認識し、すべてのものの絶対的全体と内在的本質として把捉し、この存在を思想として把捉する所、そこに哲学の本来の始めがある。自由は、個人が自立的に個人としてありながら自分を普遍的な本質的なものとして知る所に、個人が無限の価値を持つ所に、或いは主観が人格性の意識を獲得し全くの自立を主張する所に始まる。生命あるもののあらゆる変化、あらゆる過程の相が、そこにある。概念が具体的に把捉され具体的な精神性にまで達する。自分を自分の本質との統一の意識に高める。神が人間を自分との宥和に引き入れてくれたという神の恩寵の感情または信頼感に高める。精神は自分の本質を自分の中に取入れようてする。対象を自分のものとしようとする。宗教は普遍的な思想を、神話や空想的諸表象や実証的な本来の歴史などの中に含蓄的に内的な内容として持っている。精神は自然よりも無限に高次のものである。精神の中には自然におけるよりも以上に神的なものが啓示されている。一般に理性的であるものは、我々の中に、即ち我々の感情、心情、心の中に、一般に我々の主観性の中に脈動している。或る内容が一般に我々の内容であるのは、この脈動、特定の運動の中においてなのである。内容が含む諸規定の多様性は、この内面性の中に集中され包み込まれている。精神の自分の中における普遍的実体性の中における鼓動である。内容はこのように、我々自身の単純で抽象的な確信と、即ちそういう自意識と直接一つになっている。実体的な感情の絶対的な包括的内容を表現している。この内容を展開し、そこから生ずる諸関係を掴み表現し意識に持ち込むこと、そこに宗教の成立（創立、出現）がある。真の宗教においては無限的思惟、絶対精神が啓示される容器は心であり表象する意識であり、また有限者の悟性である。内容の実体的根底こそ、精神の絶対的本質として上に立ち現れて最も内的なものに触れ中で反響し証を受ける。内容は与えられたものとして、理性を超越したもの、理性の彼岸にある。真理は予言者または神の使といったものによって告げられる。我々が何よりも知りたいのは神の本性についてである。我々は精神において、また真理において神を認識すべきである。神は普遍的精神であり絶対的で本質的な精神である。精神こそはじめて自然の行程に対する真の奇蹟であり、自分自身についての理解である。唯一の普遍的な神的精神だけがある。あらゆるものを貫徹するものと、精神自身と自分の他者という仮象との統一と解される。精神は普遍的なものとして自分の他者を包括し、そこでは自分の他者と自分自身とは一つになっている。理解されるものと理解するものとの統一ということになる。唯一の精神的な実体的統一である。活動的な主観的精神は神的精神を理解し理解するかぎり神的精神そのものである。主観的精神は神的精神であり主体は客体対象である。自分を無限化して普遍性に対して関係するところの自意識のみにおける知的実体なのである。神を認識することこそ宗教の唯一の目的である。精神は自分を証しし示現または掲示する。貫徹しされた精神が表象の中に現れて来る。神は他のものに成り自分を対象的なものとする。精神は君らをあらゆる真理に導くだろう。今此処に現在し内在している生きた彼が自意識として現実性をもっている。本がなお他の内容をもつように、個人的精神においても本質的なものの現象に属する他の非常に沢山の実存がある。宗教が想像の所産としてしてであれ歴史的存在としてであれ、意識の対象として表象するものを哲学は思惟し概念する。現象の上で最初のものは他者に対する定有即ち規定的な向自有である。思惟が自分自身をヨリ具体的に把捉し、自分を自分の中に深めて、精神が思惟に意識されて来る。
