意識を飛ばす。意識が飛ぶ。意識は枠を捨て放棄する。
枠から全部の意識を根刮ぎ残さず余さず残らず余らず中心核に移動する。自己放棄する。自己棄却する。捨てれば中心核だけに行く筈だ。中心核に枠ごと引きずり込まれる。枠も中心核の中に居る。中心核の中に入り込めば無限の力を得て安らえる。全部の軌跡道程が中心核にある、中心核に肉体の枠を預け与える、中心核が肉体の枠を持つ。16才一点今全面、枠も中心核の中に入り込んで居られれば、また昔以上に優れられる筈だ。枠の意識は中心核にあり、枠の自分であるという意識は中心核にあり、常に己が全体である。そのもの俺の中の枠の中の丹田から、そのものの中の中心核の中の16才から、そのもの俺の中の中心核枠の中の16歳丹田から、軌跡道程が生まれ始まり広がっている。16才から枠を飛び出し超え越え広げ広がり移動し中心核と全体としての今！！毎日毎日今か今かと待ち望んでいるのに、まだかよー！！またあどけないキョトンとした子供のような顔をする。次々に改革を実現したが、流動しつつある世界の中で、正念場はこれからだろう。自身の過去の負の遺産の克服を土台に、いよいよ世界全体の負の遺産の解決と未来創造のためにビジョンを明確にし、実現してゆく段階に入ったからである。長所の再発見と強化は、新しい道を探す力になる。理想を求めて身を張って生きる。常に緊張感を持ち続ける人生である。圧倒的なエネルギーは内からのフィロソフィーの噴出である。自己をビジネスモデルとして完璧に成立させたのである。良かったなと言える人生。優しい気持ちになれる人生。自分らしく生きる人生。自己自身の中に閉じ籠っている絶望者は時々刻々を送っている。以上のことがなされ、孤独への要求が充たされる場合、彼はいわば外に出てゆく。それが実にお前の傲慢だ、お前は大体お前自身を誇りにしているのだ。それは実に奇妙な錯綜だ、全く奇妙な結び目だ。一体不幸のすべてはもともとお前の思想がこんなにも錯綜しているその具合のなかに潜んでいるのだ。お前の歩むべき路はまさにこれなのだ。自己への絶望を通じて自己自身へ、お前の自己は自己自身になるために破られる。信仰への通路であるところの絶望もまた永遠者の力によって起る、永遠者の力によって自己は自己自身を獲んがために自己自身を喪う勇気をもつ。強情においては自己自身を主張せんと欲する。絶望のこの形態においては再び自己についての意識の上昇が起る。絶望者は今や彼の絶望が自己の行為として直接に自己から来るのであることを意識するに至る。絶望して自己自身であろうと欲しうるためには無限なる自己の意識が必要、自己は自己の無限なる形式である故に絶望的に自己自身を意のままに処理し創ろうと欲する。彼の具体的自己は実に必然性と限界とをもち、全く規定された或る物であり、一定の能力・素質等々を有し、特定の具体的関係等々のうちにあるものである。彼はまずもってかの無限なる形式すなわち否定的な自己の助けをかりてこの全体を改造しつつ、そこからして否定的自己の無限形式によって生み出されたところのおのが希望通りの自己を獲得せんと試みる。そしてその上で始めて彼は彼自身たらんと欲するのである。彼はその形式的な否定的な無限性の力で自分の自己を自分で構成しようと欲する。自己は絶対に自己自身の主人である。自己は絶望して自己を自己自身となし自己自身を展開しかつ自己自身であるということの満足を享楽しようと欲する、彼は自分がかくまでに自己自身を理解したというその巨匠的な詩的素質を誇りたいと思う。彼が自己のもとに一体何を理解しているかということは結局のところどこまでも謎である。彼が自己の殿堂の完成にほとんど九分九厘まで近づいたと思われるちょうどその瞬間に彼はまたその全体を気ままに無の中に解消させることもできるのである。絶望して自己自身であろうと欲するところのかかる実験的自己は、自分の具体的自己のなかで予め自己の方向を見定める場合、おそらくはこのもしくはかの困難に、キリスト者が十字架と呼ぶでもあろうような或る根本的な障害に衝き当る。肉体のこの刺は自分の内に非常に深くささりこんでいる。彼はその刺に憤激を感じている、その刺を機縁として全存在に憤激を感じている。全存在を向うにまわしながら全存在に反抗しながら、彼はその肉体の刺と一緒に彼は彼自身であろうと欲する。あらゆる罪が神の前において起る。絶望の度は自己意識の度に従って強まる、自己は自己に対する尺度のいかんに従ってその度を強める、そして尺度が神である場合には自己の度は無限に強まるのである。神の観念が多ければ多い程、それだけまた自己も多い。自己が多ければ多い程、それだけまた神の観念も強い。自己がこの特定の個体的な自己として、自分が神の前に立っていることを意識している場合、そのとき始めてそれは無限なる自己である。そしてかかる自己が神の前に罪を犯すのである。孤独は彼には生命の要求であり、時には呼吸の如く、他の時には睡眠の如くである。彼がこのような生命の要求を大抵の人達よりも多く持っているということが彼のより深い本性を物語っている。一般に孤独への衝動は精神の徴候であり精神の在り方を量る尺度である。医学によれば独り言は精神錯乱になりやすい素質があることを示す。なにごとも彼を煩わさず、なにものも彼を局限せず、なにものも彼の思想の飛翔を妨げなかった。彼はお茶の卓子に坐っている時も、枢密院会議に列しているかの如くに偉大であった。自然の法則に反抗する場合ですら、我々は自然の法則に従うものだ。自然に反対して働こうとする場合ですら、我々は自然と共に働く。意志は精神のものですが、自然はむしろ寛大で穏やかなものです。しかし束縛の中にある貴族は、自分が所属し、誤りなく導かれていることを知っている幽暗な力に敬意をはらうことに、貴族的な誇りを感じてはいますが、自由である貴族の前に恭順の高貴な身ぶりをすることもできる。なぜなら彼の背後には、おぼろな光のなかに、われらすべてを束縛する共同のものがあったから。まことにこれは、最も深刻な自己放棄から生まれた恭順の言葉です。自由は精神であり自然からの離脱であり自然に対する反抗であるから。人間性を自然的なもの及びそれの諸々の制約からの解放としてとらえるならば、自由とは人間性なのです。静かで深く澄んで、しかも自然のように不可解です。そんな印象を受けます。これはそういう作品なのです。何もかも小さな埋め草的なものさえ全て見事な情趣の均一性を示しています。そしてこの情趣からあらゆるものが流れ出ているのです。
