新たな機能の獲得は人間の全生命を変形させる。人間は新次元の実在中に生きている。人間は物理的宇宙にも住みシンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、シンボル宇宙の部分をなす。シンボルの網を織る様々な糸、人間経験の縺れた糸、あらゆる人間の思想および経験の進歩は、この網を洗煉し強化する。人間は常に自分自身と語り合っている。彼は想像的な情動のうちに希望と恐怖に幻想と幻滅に空想と夢に生きている。人間を驚かすのは物についての人間の意見と想像である。合理性はまさに、あらゆる人間活動のうちに含まれている性質である。神話も体系的概念的形態を持っている。言語は理性または理性の源泉と同一視されてきた。それは部分を全体となすこと、我々に全体の代りに部分を示す。概念的言語と並んで情動的言語、論理的または科学的言語と並んで詩的想像言語がある。一次的には言語は感情および愛情を表現する。人間の文化生活の豊富にして多様な形態、あらゆるこれらの形態はシンボル的形態、人間を理性的動物と定義する代りにシンボルの動物、象徴的動物と定義したい。人間の特殊の差異を指示でき、人間の前途に拓かれている新たな道、文明への道を了解しうる。全部の時期も全時期も今同時に感じている、全部の過去も全過去も今である、16歳から軌跡道程も今中心核全枠、今日で生き返った生まれ変わった。カッシーラーによれば、シンボル的思考とシンボル的行動が人間生活の最も特徴的な姿の一つであること、人間文化の進歩全体が、これらの条件に基づいている。シンボリズムは深い源に遡る原理、広い適用の範囲のある原理、異なった形而上学的体系（観念論と唯物論、精神主義と自然主義）の間の論争の骨子、あらゆる体系にとってシンボリズムの問題は中核的問題となり科学と形而上学の未来の形態はこの問題にかかっているように見えた。

哀切極りない内奥の声が響く。哲学には論理的能力も詩人的想像力が必要である。十六歳の一年間は心身共に壮な人生の最も良き時であった。多少書を読み思索にも耽った。測り知れない深い大きいものがあり、非常に厳格なようで、その奥に何処かまた非常に暖いもののある人であった。麗らかなりし青春の日の思出も今は半ば忘れられた古き物語の如く懐かしかりし当時の友も既に鬼籍に入った者が多い。寝転んで詩や小説を読むのが楽しみであった。感傷的な心を傷つけられた。自由に自分の好む勉強ができるので内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持する所のものを有っていた。黙々として日々図書室に入り独りで書を読み独りで考えていた。思い出るままに彼の若かりし日のことなど話して見たい。彼の頭は実に旺盛であった。彼はよく書を読み記憶していた。その上判断が明晰精確かつ妥当であった。人には難しい書物も彼には容易に読めた。その教養深き高雅なる人格が自ら周囲を薫す、尊さを思い出す。雲中の竜が遂にその全身を露わす。若年にして既に超世間的で深く人生問題について考えていた。君は一見羅漢の如く人間離れしているが、しかも非常に情に細やかな所がある。無頓着のようであるが、しかも事に忠実で綿密である。君は学才の豊かな洞察に富む。行雲流水の趣を存している。高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている、自分自身をも眺めている。そのいう所が時に奇抜なように聞えることがあっても、それは君の自然から流れ出る。その考える所が、あまりに冷静と思われることがあっても、その底には深い人間愛の涙を湛えている。一見、寒山子をも思わしめる如き君の風貌の内には、碧潭水清うして、千状万態の世相、細やかに映す。繊細な感覚を有った人、時が独尊者の痕跡であるというのは面白い。人間が自然で自然が人間である。生死脱得？生死を超越するんだ。独り人間は値段以上である。学問も事業も究竟の目的は人情のためにする。名利を思うて煩悶絶間なき心の上に一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。運命は外からも内からも働く。過失の背後には不可思議の力が支配しているようである。後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く自ら救い、また死者に詫びることができる。無限の新生命に接する。また十六歳に行き届き着き軌跡道程ごと今中心核枠に若返りながら一つに合一していく。「私が無茶苦茶に考えたこと」と西田自身が言う哲学論文が難解であるだけに、簡潔平明で香り高く滋味深い随筆は印象的である。思索の難路を歩みながら「私の最後の立場に達したような心持が致します」と自ら言いうるほどに飛躍的に展開していった。西田の元で多くの弟子たちがそれぞれ独自の思想を育みながら育ち一つの思想山脈が形成されてゆく。東洋と西洋が一層深い根底を見出すことによって新しい世界文化が創造されることを切願した。平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生まれる、と西田は言う。深みへの通路は生活世界・歴史的世界に罅を入れる人生の悲哀、哲学の動機は深い人生の悲哀、深く掴む場合の問題の徹底究明が論文となり悲哀のなかで生き得ている生の単純さに複雑が収められて深さが深さのままで透明になり、しかも悲哀によって情意を滲ませる日常の生の発露が随筆類の文章になると言える。西田幾太郎その人の発露である文章は機縁に応じて主題も実に様々であるが書かれた年代も約半世紀に亘っている。随筆類は持続的な思索の緊張の一方で緊張の故に単純化した生の単純性が開きだした余白空間の趣の中で書かれたものである。論文とは質を変えた同じ西田の全自己が表れている。苦悩と不安の緊張した持続とその中で生き得ている生の根源生不可思議性が歌として自らを表現しつつ、それによって西田が自覚的に生き得た。既に生涯の終焉が予感されていた。人間が生きることの人生、歴史的社会的生、境涯が相互に浸透し合いながら結晶して完結のフィナーレをなしてゆく日々がその全幅のままに日記に映された。そのような日々を貫く主軸が思索者としての論文執筆である。青年から老年へ、明治・大正・昭和を通して、あたかも川の流れのように速さや水の色や川幅や深さを変えながら、そしてその都度の岸辺とある時は静かにある時は激しくかかわりながら一筋の流れとして流れてゆき流れつつ次第に大河の流れになってやがて海と一つに、一人の人間がこの世で生き通した一生がここにこのようにある。その人生において歴史的社会的生において境涯において人間の一生とはまさにかくの如きか、ここに人間ありと思われる。君は性来強烈なる自然の人、しかも一面明敏の智と真摯の情に富む。明敏故に物を照し己照す。真摯故に徹底の上徹底を求めて深酷の上に深酷の上に更に深酷を加う。霊肉常に君の胸裡に相戦い大に燃えん欲し、渦巻く所時に霊光の閃くを見る。理は深き上に深きを求め、情は真なる上に真なることを欲す。心身の力を尽して学に当るの概あり。ヘーゲルの哲学を喜び思をプラトンに潜め情をアウグスチヌスに
