枠→16歳から中心核から全体全面まで俺
寝て起きたら16歳の脳も復活していること！！胚の生命に與えられた衝動に決定されて元の一つの細胞が多くの細胞に分れて完足的な有機体が形成されるところまで行くように、あらゆる思想の働きの特徴となる動きは、その思想を促してそれ自身がますます細分化することによってますます精神の次々に取る面の上に拡がり、遂には言葉の面に到達するところまで行くようにさせる。そこまで行くとその思想は一つの文句即ち前からある要素の群によって表現され、その選ぶ幾つかの最初の要素は、その群の他の要素が補足物となれば任意に選ぶことが出来る。同じ思想は全く異なった言葉から成り立つ別の文句に表せる。哲学者の努力の全部は特殊科学の成果を一つの大きな綜合の中に包み込む方へ向かうものだとする一種の哲学観がある。今日特殊科学が多数になり方法が多様で複雑となり集められた事実の量が莫大になって人間の知識すべてをたった一人の頭に収める。世界を充たしてゐる物質と生命は同時に我々の内にある。すべての事物の中で働いてゐる力は我々が自分たちの内に感じる。我々自身の内部に降りて行きましょう。我々が触れた点が深ければ深いほど、我々を表面へ押戻す勢は強くなる。哲学的直観はこの接触、哲学はこの弾みであります。奥底から来た衝動によって外へ押し戻されると、我々の思考が開いて散らばるに従って我々は科学に帰る。哲学者は統一から出た。哲学が実証科学の成果を身に付けるように見える仕事は、一つの哲学がそれ以前の色々な哲学の断片を取集めると思われる操作と同様に分析である。科学は行動の補助手段、行動は結果を目的としてゐる。科学的悟性は様々な事物の配置から配置の変更へ進み、一つの同時性から別の同時性へ進む。科学の方法はベーコンが提出しているように命令するために服従すること、哲学は自然を仲間扱いにし同感を求める。哲学の本質は単純の精神、複雑は表面だけ構造は附属物であり綜合は概観、哲学するということは単純な行為であります。日常の認識にとって運動は様々な位置の系列、変化は様々な性質の系列、一般に言って生成は様々な状態の系列であります。一旦事象的な持続に連れ戻した精神はそれから先直観的な生活を営み事物に対する認識は既に哲学になっている。その精神は、無限に分割した時間の中で置き換えられる幾つかの瞬間の不連続よりは、不可分に流れる事象的な時間の連続的流動を認める。生成が実体的なものでありメロディーのうちに見られるように何処までも伸びて行く唯一つの同じ変化を把握する。直観に行く、感覚及び意識の領域から外に身を移す。有効な哲学は必然的に直観的哲学、形而上学になる。我々が自然にその中に入ってゐる時間、我々が普通眺めている変化は、事物に対する我々の行動を容易にするために我々の感覚や意識が粉々にしてしまった時間や変化なのであります。感覚や意識が作ったものを毀して我々の知覚をその起源まで遡らせれば新しい種類の認識を持つ。この認識が普遍的になれば思索も毎日の生活も温められ照らされる。あるがままの我々を取り戻す。厚みがあり弾性的な現在、我々を我々自身から遮ってゐるスクリーンをもっともっと遠くへ押しやって向こうの方へ無際限に拡げて行く現在の中で取り戻す。あるがままの外的な世界を取り戻す。現在の瞬間に表面に於いても、現在を圧迫してそれに弾みを附ける直接の過去も含めて深さに於ても取り戻す。一口に言うとすべての事物を持続の相の下に見るような習慣を附ける。そうすれば忽ち、鍍金掛った知覚の中で剛ばったものが緩み睡がってゐるものが目を覚まし死んだものが生き返る。我々を取り巻く亡霊に再び生命を吹き込み我々自身を蘇らせる。こうして哲学は実践に於ても思索に於ても科学の補足になる。宇宙と云えば、事物の可能的な統合を考えさせ、唯心論者唯物論者汎神論者にせよ、物質的及び精神的な事物の全体を説明する一つもしくは多くの単純な原理を思い浮かべるのが普通である。我々の悟性が単純を好むからである。我々の悟性は事物や出来事の無際限な系列を構成し直すのに丁度必要なだけの要素か原理を認めている。我々の悟性が節約の習慣によって結果はその原因と厳密に比例していると考えてゐるのに、自然は浪費家であるから結果を生ずるのに必要なよりも遥かに多くのものを原因の中に入れてゐる。我々のモットーは丁度必要、自然のモットーは必要以上、余計なのである。経験は我々に事物や事実を見せると同時に事物の間の類縁や事実の間の関係を示す。しかし関係は浮動してゐるし事物は流動的である。実際我々の理性が考えている宇宙は、人間の経験を無限に超越した宇宙、その際理性の持前は、経験の與えるものを長く延ばし普遍化によって拡げ、我々が意識するよりも遥かに多くの事物を我々に考えさせるところにある。古代の哲学者にとっては、時間及び空間よりも上に、永遠に亘ってあらゆる可能な真理が座を占めている世界があった。古代の哲学者にとって人間の言葉は、それがこれらの永遠な真理を忠実に模写する程一層眞であることになってゐた。近代の哲學者は眞理を天から地に下して来た。真理は事物及び事実の中に貯えられてゐる。すべての科学的な真理は人間の精神に関連していると主張するカントのような哲学でも、眞の言明は予め人間の経験の中に與えられてゐるものだと考えている。一度この経験が人間の思考一般によって組織されれば、科学の仕事は全部、胡桃が殻の中にあるように眞理が中に宿ってゐる事実の抵抗する覆いを突き通すことになる。この眞理観が我々の精神に自然であると共に哲学にも自然であるのは、事象というものを論理的な骨組に支えられた完全に纏まった体系的な全体と考えるのが自然だからである。その骨組が眞理そのものであって我々の科学はそれを見出すだけということになる。経験は我々に現象の流を示す。現象の一つに関する言明がその後に来る現象を支配すること、もしくは単に豫見
