枠から完全に開解放しされている、枠よりも俺こそ自分自身である。16歳も軌跡道程も中心核枠で包み込む。16歳のあの日に戻れ返れるものなら・・閏年の四年周期で円環的に16歳に帰りたい。16歳も軌跡道程も今現実に存在している。16歳という卵が今枠の中で内で内部で孵る。16歳という卵から種から丹田から軌跡道程という茎が幹が通り中心核枠という大きく高く強く逞しく美しく優れた満開大輪の花が咲く。空想的事柄も現実的事柄も両方出来る、文系は空想的事柄多く理系は現実的事柄多い、両方出来るようになりたい。個より個体より全として全体として動く存在する。彼も六尺豊かな偉丈夫である。広げ広がり続けた領域そのもの全体全面まで俺から丹田から枠ごと16歳から軌跡道程から中心核に纏め上げ纏まり上がるんだ。丹田から正中線から枠も16歳から軌跡道程から中心核に移動している。図書館でインターネット上に書き込み入れたから図書館もインターネットも全世界中ごと俺、枠でもある。現実には脳内ネットワークより脳力パワーより世界全体と枠との字による気の流れの方が全然重要だ。人間性は、模型に従って作り上げられ予め指定された仕事を正確にやらされる機械よりは、自らを生命体となしている内的諸力の傾向に従ってあらゆる方向に伸び拡がる樹木のようなものである（Ｊ・Ｓ・ミル）。「天地に正気有り、雑然として流るる形を賦えられる、下は則ち河嶽と為り、上は則ち日星と為る。」天上の太陽や星、地上の山や河があるように色々の形があるが、この天地には正しい生き方としての厳然とした道があることを述べた。義烈の先人の生き方、即ち正気をたたえ、「哲人は既に遠けれど、典型は夙昔に在り、風ふく軒に書を展げて読めば、古の道は顔色を照らす」先人の残した烈々たる行為、読書によって先人の残した教え、自分の生き様、即ち正気。字に全身全霊を傾注する。グローバル経済の成長は多大な利益を生んだが多くの緊張や摩擦も生んでいる。そのバランスを取り上手く世界経済を動かしていくには各国の強調が、そして何らかの指導力が必要だ。イギリスの歴史家ファーガソンは、アメリカの覇権が終われば権力が分裂しリーダー不在の世界になると予言した。「アポラリティー（非両極性）」と呼んでいる。我々は能力以上の選択をするものですが、この事自体我々の本質を表していると言える。神に感謝す、余は自分の義務を果たした。忠誠心ロイヤリティをもって身上とし与えられた義務を完遂することを第一義とする。歴史的実在の世界は論理的に自己自身を現す。それが真の弁証法です。個物は個物に対することによって個物であり、個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定、弁証法的一般者の世界は即ち我々が行為によって物を見る行為的直観の世界、かかる世界を真の現実世界と考える。自分の考の発展するにつれて色々の場合に色々の言表を用いても自分では同一の思想の発展である。言表を越えた思想の世界がある、思想の表現として言語が生じた、理性とは歴史的社会的世界の構成作用、理性は歴史的自然の技術、思惟と言表とは一つのものである。思惟とは心が心の中で自分自身と話すこと、初に言表されたものは情緒であった、それが段々に知識化した、言表は固身体的に起るといっている。寧ろ言表から思想が生れる。言表は思想の身体である。歴史的自然的に物が出来る、それを創造という、動物から人間へとして言語というものもかくして歴史的自然的に生じた。言語と意味との関係は偶然的、言語は歴史的に生成したもの、極端な精神主義者には身体というものは精神に偶然的であるかに考えられる。我々の身体は歴史的自然的に形成せられたもの、歴史的自然的に形成し行くもの、形相と質料と精神と物質と相反するものでありながら矛盾的自己同一的に一つの歴史的自然的形成作用たる所に我々の個人的自己というものがある。我々の身体というものは物質の結合でありながら何故にそれが身体であるか、それは歴史的自然的形成作用として機能を有つということから。機能というのは自己自身を形成し行く世界において働くものと世界との関係において考えられる。物を作るということから身体というものが考えられる。我々の身体は内より外から考えられる。歴史的世界の自己形成ということが、生物的社会的とするならば、我々の身体は言語的でもある。人間的身体をロゴスと考える。言語というものは歴史的社会的生命の身体ともいえる。ノアーレは言語は人間の工作に伴って発展するという。我々は働くことによって外に何らかの結果を生ずる。我々の働きの結果が共同的世界な即ち客観的世界において見られる時そこに理解というものが成立する。思想というものは、我々の働きと客観的に見られる結果とが結合するところに、その根底を有つ。いかに大なるとも人間の智は人間の智、人間の徳は人間の徳、翻身一回、此智、此徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具え、新な生命に入る。これが宗教の真髄である。宗教の智は智その者を知り、宗教の徳その者を用いる。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り一度懸崖に手を撤して絶後に蘇った者がこれを知る。愛を主とした他力宗であっても猶太教から出た基督教はなお正義の観念が強く罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。人心が自然を好愛するようになったら・・自然は文化の根である。大きな一枚の大理石から彫み出されたような文化であって欲しい。深く己の奥底に還ってそこから生きて出ればよい。時は永遠の過去より流れ来り永遠の未来に流れ去る。時は永遠の内に生れ永遠の内に消え去る。すべて歴史において現れるものはかかる永遠の背景において形づくられたものである。歴史においてあるものから見れば、すべてが因果的に永遠の過去から永遠の未来へ流れ去る。時は永遠の今の自己限定としてこれに包まれたものである。時を包み時を消すと考えられる所に永遠の内容として人格的なるものが見られる。すべての文化についてもそういい得るであろうが特に芸術はかかる永遠の背景において歴史によって形づくられる。我々の心が自己において自己を見ると考えられる如く人格的なるものというのは永遠の内に映されたる永遠の影である。如何なる芸術といえども、かかる背景を有つ。
