枠ごと全体に依存して中心核に突っ込み進み一つになる。
枠に一つ枠と一つだから、これからは枠も絶対圧倒超人的に優れられる。地球の重力も現実も枠に取り込まれ大宇宙の中心に位置存在する枠だ。あの時六浦テラスヤシロに元追浜古本屋店員が神奈川新聞の勧誘なんかに来てたのを冷たく追い返してしまったかも？もしそうだとしたら人生最大に近い失敗の後悔だ、性格的に俺に合うのはあれだけだ。激しく泣き叫んでいた頃も今枠だ。地球の枠を己の内に取り込み入れるんだ、骨の枠も重力も同様の問題だ。寝て起きたら16歳に中心核に成っている事を祈るのみだ。全部の時期の枠も今枠だ。ただただ中心核枠に集め集まるんだ。全部の他者も己に取り込まれている、己以外は無い、神も運命も取り込むんだ。森君本人が絶対圧倒超人的に大きく高く強く逞しく美しく優れ抜きん出ている。どんな宗教だって奥の方まで行けば狂熱、自己超越、神秘体験の嵐ですよ。静謐の世界があった。叡智的存在者が本質としてのそれ自身が自身の自然的本性が自己自身を限定する。この限定は存在者そのものの措定及び概念と一つのものであり、本来は存在者のうちの本質である。叡智的存在者は、それがひたすら自由かつ絶対的に行為することの確かであると等しく確かに、それ自身の内的な自然的本性に従ってのみ行為することができる。行為はそれの内面から、同一性の法則に従ってのみ、また絶対的必然性を以てのみ、結果してくることができる。この絶対的必然性のみが絶対的自由なのである。自己自身の本質の諸法則に従ってのみ行為するものこそ自由である。内的必然性は直ちに自由なのであり、人間の本質は、彼自身の行なのである。必然と自由とは唯一本質として融合する。その唯一本質が異なった側面から見られれば一或いは他として現れる。自体には自由であり、形式的には必然性である。自我は自我自身の行である。意識は自己定立である。実在的なる自己定立、自己自身を化して或るものとなり、そしてあらゆる本質性の根底であり基底であるところの、根元的または根底的意欲である。人間は根源的創造においては一つの未決定なる存在者である。ただ彼のみが自己を決定することができる。この決定は、あらゆる時間の外に、第一の創造と同時である。人間は時間の中に生まれるのではあるが、しかも創造の元初中心の内へ創り出されている。時間の中なる彼の生を限定する行は永遠に属する。時間を貫いて本性上永遠なる行として生に先立つ。この行を通して人間の生は創造の元初にまで達する。創造されたものの外に立ち自由であり自身永遠なる元初である。現にあるような彼が、あらゆる永遠として既にあった、という感情がある。行は意識に本質に先行し初めて作るものなのである。叡智的なるもの一般が時間の外にあり、先なるもののうちに既に後よりくるものも一緒に働いており、すべてが魔術的なるただの一挙を以て同時に起こる。従って今ここに〔この生に〕決定され限定されて現れている人間は、第一の創造において自己をその特定の形態のうちに攫えたのであって、彼は永遠よりしてこのような人間であり、そしてまたこのような人間として産み出されるのである。というのは、かの行によって、彼の形体化の仕方や性質までも限定されるからである。昔から、人間的行為の偶然性なるものが想定され、その偶然性が、神的悟性のうちに前以て計画された世界全体の統一に対する関係において、自由の教説における最大の障害をなしたものであった。神の予知、本来の摂理、かくして起こったのが予定の想定である。創唱者たちは、人間の行為は永遠よりして限定されておらねばならぬと感じた。我々もまた或る予定を主張する。すなわち人間は、今ここにおいて行為するごとくに、永遠からまた既に創造の元初において、行為したという意味においてである。本性上永遠である。あらゆる行為も元初に同時に起こる。精神的存在者としての彼が、彼の意志以前にまた意志から独立に或る存在を有するということを前提している。彼の内面に聞える彼自身の、現にあるごとき彼に関していえばより善き本質の声が、彼を変異にせき立てる。そしてまた彼は、実際の決定的な転換によって初めて彼自身の内面に平和を見出し、あたかも今初めて元初的イデアに満足を与えたかのように、自らを自己の守護神と和解せるものとして見出す。悪の普遍的可能性は、前述のごとく人間がその我性を、基底或いは器関たらしめる代りに、むしろ支配者にまた全意志にまで高めようと努め、他方自己のうちの精神的なるものを手段たらしめようと努め得るところに成立する。人間において我性と我意との闇い原理が全く光によって貫かれてこれと一つであれば、神は永遠なる愛として、或いは現実に実存するものとして、人間のうちなる諸力の紐帯である。罪の初めは、人間が、自身創造する根底となろうとして、また自己のうちに有する中心の力を以て万物に君臨しようとして、本来の有より非有へ、真理より嘘偽へ、光より闇へ、踏み入ることである。なんとなれば、中心から逸れた者にも、彼が万物であったという感情、すなわち神の中にまた神と共にあったという感情が、やはりなお残っており、その故に彼は再びそこへ向かって努力するのである。我欲の飢えが生ずる。我欲は、全体及び統一から自らを引き離す度合いに従って、ますます乏しく貧しくなり、しかもまさにその故にますます欲劇しく毒を含み飢えてくるのである。しかしながらこの神秘もまた顕わとなるべきものであった。罪の対立者のうちでのみ、万物の依存性の最内奥なる紐帯、すなわち神の本質が自己を顕示し、この神の本質はいわばあらゆる実存の以前にあり、いわば神自身は被造物のうちなるこの原理を被覆し、愛を以てこれを蔽うている。それは、この原理を諸々の存在者の根底に担い手になすことによってである。神とその基底との間に成立せる必然的対応に従って、かの生命の閃光、すべての個々の人間のうちにも存する暗黒の深底のうちに、輝いているかの生命の閃光が、罪人にとって焼き尽くすべき火となって燃え上る。これはあたかも、生ける有機体において、個々の肢体或いは系統が、全体から逸れるや否や、それが対立するに至った統一や協同を火（病熱）として感じ、かくして内的なる熱によって炎焼されるのと等しい。真の自由は、我々が本質的認識において感知するごとき一種神聖なる必然性と調和している。なぜなら、精神と心情とは、ただ彼ら自身の法則によってのみ縛られていて、必然的なるものを自由意志を以て肯定するからである。悪が両原理の不和に成立するとすれば、善はその完全なる和合においてのみ成立し得る。そして両者を結合する紐帯は神的のものである。彼らが一であるのは完全な無制約的な仕方においてだからである。神は我々のうちでは、明らかな認識或いは精神的な光であり、この光のうちで初めて他の一切が明らかとなる。神の本質の自己顕示において個別的なるものが生ずる。すなわち自己顕示は神の本質の特殊化であり、諸々の存在者は神の本質を分取している。すなわち神のうちの自然より発生するものとして、これを自己の実存の根底としている。あたかも疾患部が身体全体に抗うごとく、病んで全体と不調和に陥った部分が全体をば熱と感ずる。
