枠も唯一つの個体であり全体であり国家なのだ。
枠も16歳に中心核に吸い込まれて行く・・字を書き込み入れ印刷し続けて、いよいよ人として人間としての力も能力も実力も如実に付き上がり高まってきたと、はっきり言える。昔が今に生きて居る、16歳の自分も過去の全部の時期あらゆる頃あらゆる時の自分も今の自分の中に生きて居る。国家の体制にとって重要なことは、政治の内部機構が理性的に編成されていることであり、それぞれの要素が自由に活動できることです。つまり権利がいくつかに分けられ、それぞれが自立自足し、しかも、自由な活動のなかで一つの目的に向かって協力し、その目的に支えられ、有機的全体を形成する。そういう国家こそ、自分を客観的に知る理性的で自立した自由な存在といえる。国家の各要素が独自の位置を与えられて実在し、独自の機能をもつものとして力を発揮しつつ、全体の魂である個としての統一体を結実させる。国家は、精神的な理念が、人間の意思と自由の力で目に見える外形をとったものです。古代の哲学は近代の哲学の基礎をなすもので、近代の哲学のうちにすっぽりと包括され、その土台となる。同一の建造物が途切れることなく造成されていくようなもので、土台石や壁や屋根は昔ながらのものです。概念的に定義された自由は、万人の意思の洞察を原理とすることであって、自由の体系とは、その洞察の様々な側面が自由に発展したものである。全体を視野のもとにおくのは理性的な意思、理性的意思は、自らその内容を明確にし、発展させ、様々な側面を有機的に位置付ける。ゴシックの大聖堂さながらの国家構造である。国家の二つの要素、絶対の究極目的としての自由の理念、それを実現する手段として生き生きとした運動や活動を行う主観的な知と意思、次に自由を実現した公的な全体としての国家、二要素を客観的に統一したものが国家である。考察の必要上、目的と手段を区別したが、この二つは密接に繋がり、二つのうちのどちらをとっても、そこに繋がりがはっきりとあらわれている。一方で理念を明確に認識しようとすると、そこにあらわれる理念としての自由は、己のみを目的とする知と意思の自由であり、つまりは、単純な理性の概念であると同時に、主観と名づけられる自己意識であり、この世に実在する精神です。他方、主観性の考察にむかうと、主観的な知と意思が思考であることが明らかになる。そして、知や意思が思考だとすれば、私の意思の対象は、公的なものであり、絶対的な理性を備えた共同体だということになる。こうして、客観的な側面たる概念と主観的側面とのあいだに元々あった統一が、目の前に浮かび上がって来ます。この統一を客観的に実現したものが国家であって、だから、国家は、民族の具体的な生活の諸要素、例えば、芸術や法や道徳や宗教や学問の基礎であり、中心点です。民族のすべての精神的行為は、この統一を、つまり自由を意識することを唯一の目的にします。神の精神というより神の形態を、更には神々しく精神的なもの一般を最高の格調をもって表現しようとする。神々しいものは芸術によって直観にもたらされ、幻想と直観に相応しい表現を与えられる。主観と客観を統一する哲学、思考と関わる限りで哲学は最も高度な自由な広範な統一の形態です。国家のうちに登場し認識される一般的な事柄や様々な出来事の一切をまとめ上げる形式が、国民の文化とよばれる。国民全体に共有されるものとして、国家という具体的現実のうちに存在するのは、それを明確な内容をもつものとしてあらわせば、民族精神そのものです。現実の国家にあっては、そのあらゆる特殊な事件、戦争、制度、等々のうちに、この精神が生きています。人間は、自らの精神でも本質でもあるこの民族精神を認識し、それとの根源的統一を意識する。共同体的なものが主観的意思と全体的意思との統一である。精神はこの統一を明確に意識し、その認識の中心に位置するのが宗教です。（芸術と学問も、同一の内容をそれぞれ別の面からとらえたもの）宗教を考察するにあたって重要なことは、真理となる神の理念が、それだけ切り離して捉えられるか、それとも真の統一体として捉えられるかの違いです。切り離して捉えられる場合には、神が抽象的な最高存在ないし天地の支配者として彼方の彼岸にあり、他方、統一体として捉えられると、神は一般理念と個別存在を統一したものだとされ、受肉の理念のもとで個別の存在にも積極的な価値が認められる。宗教は、一民族が、自分たちにとっての真理とは何か、の定義を与える場です。定義とは、物事の本質をすべて含むものであり、物事の本性を単純かつ根本的に言い表し、すべてのものの見方の鏡となるもの、すべての特殊なものに共通する普遍的な魂です。神のイメージは一民族の全体を支える土台なのです。国家の生命力が個人のもとでは共同精神と名づけられ、国家そのもの、国家の法律や機構が、個々の国民にとっては正義です。国家の自然、その領土、その山、空気、河川は、国民の土地であり、祖国であり、目に見える財産です。一切が国民の所有物であるとともに、国民はこの一切に所有されている。国民の実体ないし存在をなすのは、国家にかかわる一切だからです。国民の観念はこの一切によって満たされるので、国民の意思は、この法律とこの祖国の意思です。この精神的な全体は、一つのまとまりをなし、それが一民族の精神です。国民は民族精神のもとに生きるのであって、それぞれの個人は民族の子であると同時に、国家が発展するかぎりで、時代の子です。民族精神は輪郭のはっきりしたものであり、民族の歴史的発展段階を明確に示すものでもあります。民族の意識が宗教、芸術、学問といった様々な形態をとるなかで、民族精神はその基本的内容をなすといえる。精神は自己を意識するとき自己を対象化し、この客観化は直接に様々な差異を生み出し、それが全体として客観精神の様々な領域をなし、一方その魂は、これらの領域が一つにまとまり、単純な統一へと向かうときに初めて生み出される。民族精神とは単一の個性であって、その本質的な姿が神としてイメージされ崇拝され受け入れられると宗教であり、像として直観的に表現されると芸術であり、認識の対象となって概念化されると哲学です。そのようにして捉えられる実体と内容と対象は、根源的に此岸にあるものだから、捉えられた形態は、国家の精神と不可分に統一されている。特定の民族精神は世界史の歩みのなかでは一つの個体にすぎない。世界史とは、精神の神々しい絶対の過程を最高の形態において表現するものであり、精神は一つ一つの段階を経ていくなかで真理と自己意識を獲得していく。各段階には、それぞれに世界史上の民族精神の形態が対応し、そこには民族の共同生活、芸術、宗教、学問の在り方が示される。一つ一つの段階を実現していくことが世界精神の衝動であり欲求です。段階に分け、それを実現していくのが世界精神の使命、世界史は世界精神が次第に真理を意識し意欲する過程を示す。精神の夜明けが訪れ要衝が見えてきて最後には真理が完璧に意識される。
