枠も生きている、地球も生きている、宇宙も生きている。
詩人とはただ、己によって生き動き自己の最も内奥の本質をも看破しているような人物たちによって、自分が囲繞されているのを見ることによってのみ詩人である。人は絶えず生き生きとした劇を見、常に諸々の精神に取囲まれて生きるならば詩人である。人はただ、自己を変え、他の肉体と霊魂とを通じて語りかける衝動を感じさえするならば戯曲家なのである。ディオニュソス的な感情は、群集全体に、自分たちと内的に一つであると知っている精神の群に、自分たちが取囲まれているのを見るという芸術的天稟を分かち与える。その魅惑の中にディオニュソス的な陶酔者は、自己をサチュロスと見、サチュロスとして彼は今度は神を見る。この新しい幻想をもって演劇は完璧となる。その眼差の見るものは、金色の光の屈折から昇って来たように極めて充実して若々しく豊かに生き生きとし憧憬に溢れている無限というものである。ディオニュソス的生と悲劇の再生とを信ぜよ。救済されるべき悲劇的人間であれ。苦しい闘いに備えよ、必ずや神の奇蹟を信ぜよ。大体狭い小さな枠に囚われた精神は駄目だ、過去のトラウマも他人への激烈な恨みも小さなこと、柵を捨て去るんだ。そのもの全体全面の俺の中で内で内部で生々流転想起している。創造と維持と破壊、生まれ育って更に新しく生まれる。愛する女性が欲しい、愛の対象が欲しい。ＳＥＸ三昧の日々を愛欲に溺れる生活を送りたい！！そのもの全体全面から俺から枠の全身に力を受けるんだ。脳も身体も嘗ての完全なる復活だ。イノベーション、創造的破壊の連続だ。不老不死に肉体的にも世界最強になる事は人生の目標の一つだ。ただ未来を築く者のみが、過去を裁く権利を持っている。前方を眺め一つの大きな目標を掲げる、周りに大きく広い希望と希望に燃える努力との柵を巡らす。心の中に未来に相応しい像を描け。私は私の上に、私自身があるよりも高く、より人間的なものを見る。君たちは皆それに到達するように私を助けてくれ。認識することと愛することとにおいても、見ることと為しうるということとにおいても、自分が充実し無限であると感じ、その全身全霊をもって事物の判定者と価値測定者として、自然の内外と固く結びついているような人間が、再び出来上がるであろう。愛のうちにのみ魂は、明晰で自分自身を切り虐み軽蔑するような眼差を受け、自分自身を超えて見ようとする隠れている高度の自我を全力をもって求めようとする、あの欲求をも獲得する。来い助けてくれ作り上げてくれ、連関のあるものは一つに組み立ててくれ、我々は全体となることを熱望している。「ディオニュソス的」という言葉をもって表現されるのは、統一への衝迫であり、人格、日常、社会、現実を超え、推移の深淵を超えて、掴みかかることであり、ほの暗く充実した漂うような状態に、情熱的に苦悩しつつ充溢してゆくことである。すべての転変のうちにあって同じであるもの、同じように力強い浄福である生の全性格に対して、歓喜して肯定することである。大きな汎神論的な同楽同憂の共感であり、それはまた最も恐るべき問題を含む、生の諸々の特質を是とし、神聖化するものである。生むこと、実ること、回帰すること、への永遠の意志であり、創造と否定との必然性の統一感情である。「アポロ的」という言葉をもって表現されるのは、完璧な即＝自＝在への、典型的な「個」への、単純化し抽出し力強く明瞭に典型化する一切のものへの、衝迫であり法則の下における自由である。これら二つの、自然＝文化力の相反に、芸術の生殖作用というものは必然的に結びついているのであり、人間の生殖が両性の相反に結びついているのと同じである。力の充溢と抑制、冷たく高貴で控目の美における自己肯定の形式。ギリシャ的意志のアポロ主義。繋がりたい一つに全体になりたい自分の領域を何処までも広げ広がって行きたい。世界全体さえ枠の延長なのだ。ディオニュソス的なるものの魔力の下では、疎遠となった敵対関係にある抑圧された自然が、息子である人間と、再び和解の祝祭を祝う。奴隷が自由人となる。世界調和の福音と共に、和解し融和し一であるのを感ずる。人間は高い共同体の一員としての姿を見せる。彼は大空に飛翔してゆく途上にある。彼から超自然的な何ものかが響いて来る。彼は自らを感じ、その夢の内で神々が転身するのを見たのと同じように、今や彼自らが歓喜し、高められて転身するのである。人間は自ら芸術作品となった。全自然の芸術力は、根源の一者をして歓喜し満足せしめるために陶酔の戦慄の中に発現する。最も崇高なる粘土、最も貴い大理石が、ここで捏ね彫られる。すなわち人間である。「百万の人々よ、汝らは倒れ去るか。世界よ、汝は創造者を予感するか」人間の原型、それの最も高く強い感動の表現、神々の近付いて来ることに歓喜し興奮した陶酔者としての姿であった。何か崇高な神々しいものであった。彼の眼は、崇高な安らぎをもって赤裸な堂々とした自然の筆跡の上に注がれていた。真実を欲し最高の力を漲らせた自然を欲する。主観と客観、認識するものと認識されるもの、真実直接に一つになっている、一切の差別を絶した絶対の同一性としての神の心は、理解するところのものであると共に理解されるところのものである。受容者にして賦与者たるもの、萬物がそこへと還帰し且つ萬物がそこから出現しきたる所以の同一の源泉である。個体の内には或る新しい存在への萌芽が含まれ、新しい存在が出現してくる。再生の神秘。この瞬間に生きている凡ての存在は既に将来生れてくるであろうところの凡てのものの本来の核心を含み、或る意味では今日既にそこに存在している。世界の舞台の上でどんなに脚本や場面が変るにしても、結局俳優達は凡ての点で同一なのである。輪廻とは所謂霊魂がそっくりそのまま別の肉体の中に移り行くこと、再生とは個体の解体と再建の謂、その場合意志だけが持続し新しい存在の形体をとり新しい知性を獲得する。知性は単に形而下的性質のものであり相応しく過ぎ去り易い？意志は形而上的に存続する？一方からいえば、彼は時間のうちに始まり且つ終るところの過ぎ去り行く個体であり、謂わば「影の夢」である。それにまた彼は諸々の過誤と諸々の苦悩という重い荷を背負わされている。他方からいえば、彼は一切の現存在のうちに自己を客観化するところの不滅の根源的存在なのであり、彼はサイスにあるイシスの像と共に「我はありしところのもの、あるところのもの、あるであろうところのものの凡てである」と語りうる。この世界の中で自己を現象化する。俺は枠は彼は正しく両方だ。恰も天に閃く稲妻のように全能の力を以て電光石火この世をかすめさる。これら凡ての対立を統一することが本来哲学の主題である。個体的な存在の底には全く異質的な存在が横たわっている。超越的な問題に、内在的認識のために創られた言葉で解答しようとすれば矛盾に陥る？プロフェッサーの哲学は専ら神様だけを問題にし、彼によれば、神が世界の中のどこかに潜んでおられる時は神は内在的、神がどこか彼方に坐っておられる時は神は超越的、これならはっきりしていて良く分かる。
