枠よりも俺！！枠よりも広げ広がり続けている俺こそが自分である。
全体を統合一致する。森君を陶冶する。16才も軌跡道程も枠になれば、また能力が絶対圧倒的に抜きん出て神に成れる。今はこの様だけれど16才は超頭良かったんだ。子供の頃も16才も全部の時期あらゆる頃あらゆる時もハッキリ鮮明に覚えている記憶に残っている。結局16才よりも能力は全然・・自分に出来るのは字に任せるたけか。後は神の手による超スーパーサプライズを待つ。積極的な認識観念、自然は柔軟な人間の役に立つものになる。変化に対する精神的態度も根本から変る。変化は、新しい可能性や達成すべき目的を意味し、進歩を連想させ、より良い未来を予言するものになる。何れにしても、変化は絶えず進んでいるのであるから、大切なのは、変化を十分に学んで、これを支配し望む方向に向ける力を持つことである。条件や出来事は利用し管理すべきものである。目的にとっての障害物であるか、それとも目的達成の手段であるか、深い意味で認識は実践的なものになる。観念が一つの足場になって、そこから現在の出来事の吟味が行われ、その中に遠方との通信を可能にする方法のヒントになるもの、遠距離の会話の手段として利用すべきものの検討が行われる。自然現象を研究する足がかりになる。事物は諸性質を見せてくれる。曖昧な不動的なものは積極的な姿になる。作用と反作用とが進んで行く。可能性や観念は、現実の存在を観察するための方法として用いられ、発見されたものに導かれて、可能性が具体的存在という姿になる。具体的環境が望ましい方向へ変形される。事実において理想化された。観念的なものは、具体的な自然の作用の検査、実験、選択、結合の道具乃至方法として利用されることを通じて現実化される。観念的な理性的なもの、現存の世界の含む可能性の知的結晶であり、現存の世界の改造および改良の方法に用いることが出来る。東洋人の生活習慣のうちに、観想的な美的な瞑想に富む宗教的な気分が多く含まれているのに対して、西洋人の場合は、科学的産業的実践的な気分が多く含まれている。実在的なものと観念的なものとの関係、人間のあらゆる問題の中で最も重大なこの問題を哲学が占有して来たという事実、認識や知性を自己充足的なものと見る。思惟が経験の計画的再組織を確保する方法であるなら、論理学は、望ましい再構成が一層経済的且つ効果的に行われるのを可能にするような、思惟過程の明晰な組織的な定式化であろう。学生のよく知っている言い方をすれば、論理学は科学でもあり技術でもある。多くの時代を通じて、人間は思惟活動を行って来た。人間は、色々な仕方で観察し推理し推論し、そして色々な結果に到達して来た。人類学、神話や伝説や祭式の起源の研究、言語学や文法、修辞学や古い論理構成、これらのものは、人間がいかに思惟して来たか、種々の思惟活動の目的および結果が何であったかを私たちに教えてくれる。或る種の思惟が妄想体系や誤解を生んだことは、経験によって示されている。実際の思惟の経験的記録の研究が進めば進むほど、失敗や成功を生んだ思惟の諸特徴の間の関連が明らかになって来る。この経験的に確かめられた因果関係から、思惟の技術の規範および統制が生まれる。
