枠を忘れろ！！己は中心核から全体で先である。
枠から行く先で中心核で全体であること！！「歴史哲学講義」高次の世界における色彩は物質界におけるよりも無限に多様であり豊富である。理性が世界を支配し、世界の歴史も理性的に進行する。その理性が、実体であり、無限の力であり、自ら自然的生命および精神的生命を成り立たせる無限の素材であり、この内容を活性化させる無限の形式でもあることが、哲学的認識を通じて照明される。理性が実体だというのは、あらゆる現実が理性によって理性のなかに存在し存在し続けるということであり、無限の内容だというのは、あらゆる実在と真理が理性であり、理性は活動の素材を自分で自分に提供するということ、理性は己を糧とし自分自身を材料としてそれに手を加える。理性にとって前提となるのは理性そのものだけであり、理性の目的が絶対の究極目的である以上、理性の活動や生産は、理性の内実を外にあらわし、そのあらわれが、一方では自然的宇宙であり、他方では精神的宇宙、つまり世界史なのです。そうした理念こそが力強い永遠の真理であり、その理念が、理念と栄誉と栄光だけが、世界の内に啓示されること・・それが哲学の証明するところであり、歴史においては証明ずみの真理として前提される事柄です。世界史の内に理性が存在すること、知と自覚的意思の世界は明晰な理念の光の内に展開する。全体を眺め渡した後に得られる結論事項、その結論を私が知っているのは、私が既に全体を認識しているからです。世界史が理性的に進むこと、世界史が世界精神の理性的かつ必然的な歩みであることは、世界史を考察することによって初めて明らかになることであって、どの領域にあっても同一の本性を保持する精神が、世界という現実の場でその本性の一面を展開してみせたのが世界史です。その精緻さ、精確さ、支配する領域の広大さ、内に持つエネルギーの激しさ、どれも16歳以来今が今までで一番桁違いだ。一つの理論、一つの原則、一つの真理が、抽象論の域に留まるのか、それとも、細かな内容を与えられて具体的に展開されるのかは、重要な区別です。神の摂理によって支配される。神の一なる摂理が世界の出来事を統轄している、というのは、理性の原理にふさわしい真理です。神の摂理とは、世界の絶対的かつ理性的な究極目的を実現する全能の知恵だからです。理性とは、まったく自由に自己を実現する思考なのです。一般原理を具体的現実に適用したり認識する。一般原理と具体的現実を統一的に捉える。神意を読み取る。神の助けの手が差し伸べられる。神は、神を豊かに認識し、神の認識の内にのみすべての価値をおくような人間を我が子と見なす。神の存在の啓示という基礎から出発した、思考する精神の発展は、精神がさしあたり感覚やイメージによってとらえていたものを、思考によっても捉えるところまで到達する。最終的には、理性の創造した豊かな産物を概念によって捉える、それが世界史の仕事です。動植物や個々人の運命の内に神の知恵が働き、世界史の内にも神の摂理が啓示される。永遠の知恵の目指すところが、自然という土台の上にも現実の活動する世界という土台の上にも実現されていくことを洞察する。真の意味での世界の究極目的は何かを意識し、その目的が実現される過程で、精神と悪を和解させ、悪を支配し克服する。俺の枠の世界の究極最終目的を知った。一つに合一することだけだ。世界史が精神の地平の上で展開する。世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。自由こそが唯一の真理である、というのが哲学的思索のもたらす認識です。物質は中心点に向かう限りで重さを持つ。物質はその本質からして集合体であり、ばらばらな要素からなり、統一を求めることは観念性を求めることです。精神は内部に中心点を持ち、精神の統一は内部に見出されるので、自分の内部で安定しています。物質の実体は物質の外部にあるが、精神は自分のもとで安定している。これこそがまさに自由です。精神が自分のもとにあるとき、精神は自己を意識する自己意識です。意識には二面があって、意識のはたらきと対象が区別されるが、自己意識にあっては、この二つが一体化している。精神は自分を意識し、自分の本性を判断し、同時に、自分に向かって自分を生み出し、本来の自分にかえっていく活動をも行っているからです。精神は自由だ、という抽象的定義に従えば、世界の歴史とは、精神が本来の自己を次第に正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる。そして、萌芽のうちに樹木の全性質や果実の味と形が含まれるように、精神の最初の一歩の内に、歴史の全体が潜在的に含まれます。世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、その過程の必然性を認識する。自由とは自己を意識し（なぜなら、自由とはその概念からして自己を知ることだから）、そのことによって自己を実現するという無限の必然性を内に含む。自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです。この究極目的に向かって世界史は仕上げられていくし、この究極目的への捧げものとして、地球という広い祭壇の上に、長い年月にわたって、ありとあらゆる犠牲が捧げられる。この究極目的だけが自己を貫徹し実現するものであり、あらゆる事変や状況変化のなかで唯一恒久なもの、真に力あるものです。この究極目的は、神が世界とのかかわりのなかで意思するものだが、神は完全無欠な存在だから、その意思するところは自分自身、神の意思の本性とは、宗教的観念を思想に置き換えたときにあらわれる自由の理念である。自由が世界において自己を実現する。自分は、枠よりも、中心核で全体で広げ広がり移動し続けて来た先であるのだ。最早自分は枠よりも中心核に全体に成っている。枠よりも16歳から広がる中心核から広がる全体である。自分は枠よりも中心核から全体である。中心核と全体としての己が枠を引っ張り上げるんだ。十六歳で枠に充満し飛び出し越えてからは、全体まで広げ広がり続け、更には中心核まで移動し続けて来たんだ、枠から広げ広がり移動し続けた先に成るのだ。
