森君本人も世界史上最強の超一流の武芸者である。
自己自分自身としての全意識は常に何時如何なる時も枠よりも遥か遠くへ彼方へ宇宙へ世界全体へ全歴史へ16歳へ軌跡道程へ広げ広がり続けた領域そのもの全体全面としての俺へ飛んで行って居る、意識ぶっ飛んでいる。俺も枠も16歳という種子から巨大樹のように根から茎から幹から枝葉末節まで花実が咲く。もう流石に良い年だけれど、それでも全部の過去も今に全部の過去の枠も今に合わせ合わさり集め集まり集中集合集結集しさせされるなら、つまりはこれから完成しさせされる、そういう運命だった。これから丹田が16歳に正中線が軌跡道程に枠が中心核に俺がそのもの全体全面になることは絶対必然確定事実だ。世界は音楽で成り立っている、躍動する頭に心に体に音楽が鳴り響いている。またインターネットと経済誌や宗教哲学書等で勉強して来よう。時が経つほど時間が流れるほど、軌跡道程の中心核たる16歳に近付け付き吸い込まれ取られ若返って行くと同時に、軌跡道程に広げ広がり沁み染み込み渡り通り浸透し、全部の時期あらゆる頃あらゆる時も今に同時である。16歳での個人単体枠の充実と統一と膨張からバブル弾け混沌、そのもの全体全面まで俺としての最終的再大統一だ。16歳以上の個人単体枠としての充実と統一、16歳丹田から軌跡道程から今中心核全枠からそのもの全体全面まで俺としての充実と最終大統一だ。16歳以後以降でも素晴らしく良く多少マシにマトモに優れていた時期もあったのに、このゲームの件とマッサージとかいう件で侮辱された事は阿呆なまでに問題外の大失敗だった。部屋の中で瞑想する、本を読む、実世界で経験を積む、世界の実相が見える。宇宙の心はこの枠に脈打っている。世界全体がこの枠に躍動脈動している。16歳もこの枠に生きて居る。軌跡道程がこの枠に連なっている。俺の16歳も軌跡道程も枠になっている。まるで見せ付けるように森瞬がセブンイレブンの窓際で電影少女を立ち読みしていた。病的に繊細で羽が触れても深く傷付く宇宙の心だ。字の所為でそうなってしまった？永遠に若い少年である。またしても深く感動した。国家は特殊な自己意識が普遍にまで高められたところに生まれる実体的意思の現実態であり、絶対的に理性的なものである。この実体的統一体は絶対不動の自己目的であり、その中で自由は最高の権利に到達すると共に、この究極目的は個人に対する最高の法となり、個人は国家の成員たることを最高の義務とすることになる。この文章が表出しているのは、ありのままの国家に関する哲学的認識よりは、国家の絶対性を自他に納得させたいと願う国家主義の熱情である。現実の分裂、対立、矛盾の契機をすべて市民社会の中に投げ込むことによって、へーゲルの国家は、いわば純粋無垢の統一体として輝かしい姿を現すことになったが、それは夢幻の国家であった。へーゲルの統一国家は、そこに含まれる矛盾や対立をすべて市民社会に押し込むことによって絶対性を獲得する。市民社会では最大限の自由を許された市民が、国家の次元では普遍意思の遂行者という抽象の極にまで絞り上げられる。自己の内部で特殊人と普遍人に鋭く引き裂かれつつ国家の統一の内に最終的に取り込まれて行くというのがへーゲルの捉えた近代人の本質的な姿であった。そうした国家をへーゲルは具体的自由の現実態だと名付けている。法の土台は一般に精神的なものであり、その立場及び出発点は、もっと厳密にいえば自由な意志である。つまり自由こそが法の実体と規定をなし、法体系は実現された自由の王国である。『法哲学』は自由の王国に関する哲学だといえる。自由はへーゲルにあっては歴史の発展過程とも必然的に絡み合う。世界史とは自由の意識の進歩のことであり、その進歩の必然性を我々は認識する。歴史的必然性を認識する。暴君の神々しさは動物の神々しさであり闇雲の必然性、それはまさしく悪と憎まれるに相応しい。太陽が蒼穹に輝き、惑星がその周りを巡るようになって以来、人間が頭で思想で立ち思想に従って現実を建設する、理性が世界を支配する、人間は初めて思想が精神的な現実を支配すべきだと認識するに至った。その意味で輝かしい日の出であった。思考するものはすべてこの新紀元を共に祝福した。荘厳な感動がかの時代を支配し、精神の熱狂が世界を震撼して、あたかも神的なものこの世とが始めて現実に和解に達したかの如くであった。不法と頽廃と弾圧と失政に彩られた革命前の酷薄な政治社会状況に突如として自由と理性と正義の黎明が訪れ、既に啓蒙思想の洗礼を受け新しい出発の準備を整えた時代精神は、熱狂的な歓呼の声を上げて黎明を迎え入れる・・フランス革命をそのように劇的な構図の中に捉えたへーゲルは政治思想的には民衆の立場になっていた。自由も理性も新しい精神も正義も法の思想も民衆の心に宿るというのがへーゲルの基本的な思想であった。社会的な身分や地位や職業の違いを超えて自由で平等な人権が存在するという「フランス人権宣言」の思想とぴったり呼応する。革命勃発時に革命大衆の心情をそのまま自己の心情としえた。そうした心情の重なり合いが「あたかも神的なものとこの世とが今や初めて現実に和解に達したかの如くであった」という、歴史家として最後の言葉ともいうべきものを吐かせている。へーゲル個人のものというより、フランス革命全体に付き纏う宗教性・観念性である。フランス革命は、その幻想形態からすれば、政治性と宗教性がそれぞれに極点まで上り詰めつつ互いに凌ぎを削るといった様相を呈していて、宗教性に沿ってその論理を辿って行くと、自分の現実感覚とは程遠い空想の世界に引き込まれる思いがする。革命の渦中で為された誰彼の昂揚した演説には宗教的観念性が至る所に見出される。革命を祝う祭典が一度は「理性の祭典」と名付けられ今一度は「最高存在の祭典」と名付けられた事実に、宗教性が革命時の一般意識に広く行き渡っていた様子を窺う。神的なものとこの世との現実の和解がどのように意識されるかを自分の中で追体験し、当時の精神状況に知的に足を踏み入れる。自由はぎりぎり抽象的に定義すると次のようになる。
