汝の欲するところをなせ。
人間は自然に従うことによってのみ自然を支配することができる。自己を正当に楽しむことができるのは、絶対的な、また神のような完成に到達したことである。自己を享受しうるためには、まずもって自己をよく知る必要がある。自己探求の記録、私自身がこの書物の内容である。彼は啓示を受けた。新しい方法の獲得によって自然研究の全分野に向かってひらけてきた新しい展望が、若い彼を熱狂の状態においた。世上よくデカルトを演繹方法の宗家のようにいい、ベーコンの帰納法と対立して、彼は一つの基本原則から、抽象的な論理的展開で結論を導き出す哲学者であるかのごとくいうむきがあるが、これは当たらざること遠いものであって、彼は帰納をも演繹をも真理の探究に必要な方法と見ている。あらゆる分野における真理の探究に関心を持ち、それらを総合的に論じた『宇宙論』を執筆しようと志した点において、デカルトはルネサンス思想の継承者であると同時に、十八世紀の百科全書派の先駆者であった。『省察』が出た。『方法序説』に述べられている彼の形而上学をより詳細に展開したものである。人間の魂と神の存在を証明することが彼の目的であるが、ここにおいて彼は二元論者として現れている。彼によれば精神と物体は二つの実体であって、前者は思惟を、後者は延長を属性とする。神の存在を証明するに当たって、我々の内には最高の完全性をそなえた神の概念がある。最高の完全性をそなえた人間を想像することができる。後から来るものは先人の終えたところから始め、こうして幾多の生涯と、数多の人間の労作を合わせて、我々は全体で、各人が別々にすることができるよりも遥か遠くまで進む。人間による科学の無限の発達を確信し、それが人類に希望をもたらすであろうという明るい希望にみたされて、我々を「自然の主人および所有者」とするために努力している。我はさすらい人である。我、今よりなおいかなる運命・いかなる体験を閲するとも、その中には常にさすらいがあり登坂がある。人間は自己を体験する。我が自我と、我が自我より出でて長く異郷にありしものと、我が自我にしてあらゆる事物と偶然の間に散乱しいたるものとが、ついに我に帰郷しきたるのみ。我は今や我が最後の絶頂の前に立ち、我に最後まで許されざれしものの前に立つ。最も深奥なる叡智を探る。ああ、我はこよなき険難の路を登らねばならぬ！我は我が寂寥の極みのさすらいを踏み出でた！かかる時はかく言う、いまぞはじめて、汝は汝の偉大さの道を往く！山嶺と深淵は、ここに一つに帰した！これまでは汝の至上の危険といわれしもの、今や汝の最後の隠れ家とはなった。一切の事物の根底と後景とを観んとしている。汝は汝自身を超えて登らねばならぬ！彼方へ上へ、己の星を自らの下にするまで登らねばならぬ！我自らを俯瞰し、我が星を俯瞰し、今、我に最終の山頂として残れるは、ただ之のみである！我は知る、我が運命を、我が心は成った。あまたの理想を次々と超克した。我は我が至高の山々の前に立つ。我は我が果てしなきさすらいの前に立つ。この故に深く降りゆく。最も高きものは、最も深きものより出でて、その頂をなす。汝は自らを高くに投げた。すべての投げ上げられた石は落ちねばならぬ！ついには汝自身に報うべく、また、汝自身石打の刑を受くべく罪定められながら、汝は石を遠くへと投じた。その石は再び汝の頭上に落ち来たるであろう！見よ、この瞬間を！この瞬間の城門より、一條の長き永遠の辻が後ろに走っている。我らの背後には永遠が横たわっている。一切の真理は曲線である。時間自体も円周である。一切の事物はかく堅く結ばれてある。この瞬間がすべての来たるべき事物を己自身をも牽ききたる。未来に於て起りうるすべての現象は既に過去に起ったことがある。現在のこの瞬間も、我らが既に過去に於て体験したことがあるものである。（無限の時間の中にあって、有限の力のコンビネーションは有限であるから）ある一つの瞬間の状態は必然的に一定の次のそれを生む。しかして、この瞬間は、そのすべての内容を伴って、無限の回数だけ繰り返して生起する。自分は過去のある一瞬間と全く同一の気分に陥った。浮き空と広がる太陽と共にあって、我は再び孤独である。一切の事物のより完成せる完成を目指して、我が為に我が意志を我が表の上に記す者となる。漂白者の影と倦怠と静かなる時と、一切のものは我に告げた。時は来た。16才も軌跡道程も枠に来なれば、また能力も合わさり成長期になり背ももっと高く出来なれる。全体全面まで広げ広がり16歳まで中心核まで移動し切り一つに合一する、枠はその中心、その為に生まれて来た、その為に生きて居るのだ。
