無限に広がる時空間の中に16才がある、時空間全体全面としての己である。
過去には人生で最も優れた16才始め多少マシだった時期も多々沢山点々とは有ったんだ、其の全部の当時の今枠脳心身体である。そのもの全体全面から俺から今中心核全枠から軌跡道程正中線から16歳丹田まで16歳丹田から軌跡道程正中線から今中心核全枠から俺からそのもの全体全面まで一直線である。
考える過程においてそこに喜びを見つけ出し、結論においてはここまで真剣に考え抜いた者は世の中に自分しかいないことを自信の根拠とする。
おのが敵達を忘却の呪いに委ねた。己を捉え苦しめていた縛めの網を引き破り心の新たな安らいを覚えながら孤独の中に気ままな才は静かな仕事、思考の渇きを知った。長い思いを心に留め逆らいの思いに満ちた青春の失われた年月の償いを自由の懐に求めつつ時代の輝く智力の高みに立とうと努める。時は来た！さあ！決断を下す時だ！お前と共に暗黒星雲は宇宙の何処へでも行く。地球というちっぽけな星の支配者に収まるか、或いは地球を遠く離れて宇宙の秘密の一部を覗いてみるか、時間も空間もお前の前に開かれるであろう。更に偉大で恐ろしい運命に赴くことにもなる。お前の意志一つだ！ブラフマンとは永遠に存在する原理であり力であり宇宙そのもの、決定するのはお前なのだ、お前は力を求めて力を得た！尽天地は一軸の経巻、曼陀羅は宇宙の本質を仏の姿で表した密教の奥義、胎蔵界曼陀羅は空間の構造と原理を、金剛界曼陀羅は時間理論の秘密を神秘的な図法で完全に解き明かしたもの、時空間での宇宙の神秘を見る。個人と全体を共に発展させつつ統合を可能にする。個人主義と全体主義、自由意志論と決定論とを相共に受け入れ統合を求める。自覚は、個別性多数性総体性における人の概念に展開する。人の概念はかかる複雑な形を現している。個別性と多数性（すなわち特殊性）、及びすべては同時に一となって。道程のあらゆる一歩一歩において相伴い三者の合一においてのみ人の道は存する。自我の根源において個別的多数的総体的なる人が見出された。倫理学においてはかかる人間が主体として取り扱われる。主体的な人間の個別的多数的総体的な構造のうちに人の道が存する。「人とは何であるか」という問いから即ち概念から人の有が生まれる。思惟が「有ること」を産む。思惟の産み出す内容は同時に対象的な内容であり自然界はかかる意味において思惟より産出せられる有、人の概念から産出せられる人の有は対象的に有るところの人を意味する。人間の学は問いを発することにおいてその問いに先立つ地盤へ遡源すべき唯一の学である。学でありつつ学に先立つ存在へ関係する唯一の学である。実践の法則を実践自身から見出すということは学の立場において学に先立つ地盤に遡るということ、純粋意志が根源よりの産出であるならば実践的産出、概念の産出は思惟の任務であり従って学の立場の仕事である。かかる産出に先立って実践的に無の迂路を通ずる根源よりの産出がある。それが人間の存在である。概念はかかる実践的産出の思惟による把捉である。この関係において人間の概念は人間の存在より生じ、個別性多数性総体性の統一は根源的には人間の存在構造、倫理学はこれの把捉を任務とする。実践自身は学問の立場をも包む、学者が思索し始めるということは実践における一つの態度、この態度を取る限り実践自身も一つの概念に化せられるが、その態度を含む実践的存在は依然として思惟の根底に存している。実践哲学は哲学としては学問の立場に立つが、実践の哲学としては学問の立場を超えたものに関係する。実践哲学は学問でありつつ学問の立場を超える唯一の学問なのである。全体は一つの有機的な体系になる。共同態は生ける全体である。個々の成員があくまでも独自的でありつつ、しかもその特殊性において全体を現すという、普遍と特殊との弁証法的関係、有機的全体性は彼においては「生ける自然」として現れ、自然は精神、即ち主体である。国家を有機体として把捉し個性と共同態との総合を試みた。生ける全体性は人倫的な実体、実践的な主体、あらゆる客観的な姿に己を表現するところの人倫的実体として充実せる規定を含んだ具体者となる。倫理学が展開して精神哲学となったならば精神哲学の核実が倫理学、精神は人倫的現実性として規定せられる。人倫の体系は絶対的人倫の理念を認識しようとする。絶対的人倫の理念とは、絶対的実在性（差別を含んだ無差別）をば統一として己の内に取り戻すこと、絶対的全体性、人倫とはかかる生の全体性、本来の現実性である。それは存在のあらゆる契機を含み、特殊と普遍、主観と客観を合一する。この全体性を普遍の契機より見れば絶対的民族、特殊の契機より見れば個性の絶対的合一である。人倫の諸段階として説かれるものは、最も抽象的なる個別性の契機から様々の限定を総合しつつ最も具体的な全体性に達する段取り、言い換えれば人間の存在構造を思惟の弁証法的発展として映し取り、抽象的普遍より特殊を通じて具体的普遍に到達する道程として把捉したものである。先ず出発点においては個人の立場が抽出され個別性が原理とせられる。個別者の内部において差別と無差別、普遍と特殊が取り扱われる。この第一段階において絶対的人倫は自然として現れる。人倫の普遍的契機すなわち民族は内部に隠れ、多様な実在、或いは個別性、個々の人が表面に現れる。生ける全体から見れば単に抽象的な一面たる個別者の内部において如何に本来の全体性が回復されようとするか、個別者の立場において民族という如き普遍は単に形式的抽象的なもの、個別者もまた生ける全体性の一面である限り、かかる普遍を内に蔵している。普遍は個別者の上に浮動する抽象的普遍であると共にまた個別者の内なる光であるという矛盾に現れ、それが個別者すなわち主観を普遍者すなわち客観の方へ追いやるもの、すなわち衝動、個別の立場における全体性の回復はかかる衝動の形において行われる。ここに特殊と普遍との同一が不完全な合一すなわち「関係」として規定せられ、そこで自然的人倫はまた「関係による絶対的人倫」とも言い現される。この展開はすべて個別的主観的なるものが普遍的客観的なるものに転ずることを通じて両者の総合に達するという移り行きによって説かれる。実践的感情すなわち全然個別あるいは主観に没入せる普遍あるいは客観としての感情、両性の差別が完全に無くされ両者が絶対的統一となる、子供は男女両性の全体性の感情として個人的実在的な生ける実体である。叡智の合理的結合、抽象的客観性が個性を獲、普遍的な言葉が特殊の主体を現す。絶対的個別性の物体化、話の物体性がここでは個性の内に総括せられた全体性を表現する。かかる言葉が実践的感情の最高の華である。実在的差別が絶対者の中で合一する。
