無限数の小さな円からなる一つの超巨大な円である。
只今となっては生きるより生かされ動くより動かされるだけだ。またしても超感情の激発、天衣無縫、狂喜乱舞の舞だ。俺は当然として枠でさえ一つの世界、宇宙、曼陀羅、神の住まう神殿だ。超エネルギーの塊が疲労困憊だ。枠も主要大部分中心核に移し入れ移り入る。俺は己は自分自身は枠を中心核と始支点として時空間的に生々流転を続ける軌跡道程擁する時空間を大きく遥かに超越した全体全面そのものである。感動と快楽と陶酔が全身に満ち溢れ脳天から爪先まで突き抜けた。無限を有限に移し造り入れる。16歳以前にも辛く苦しい思い出やトラウマは沢山あるけれど「16歳まで紡いだ」という意味で16歳までは成功だったと言える、問題はその後、そのもの全体全面まで広げ広がる為に主要大部分も体外に出し出たのだ。当然あらゆる歴史も軌跡道程も生成想起も己の中だ。絶対精神は所謂有限な主観精神、芸術は、此岸の生活が真の生活であり有限なものが無限なものであるという感情から、最高の存在、神的な存在としての一定の現実的存在に対する感激から生まれてくる。キリスト教の一神論よりも、多神論、所謂偶像崇拝だけが芸術と科学の源である。ギリシャ人はただ、人間の姿を最高の姿、神の姿とみることによってのみ、完成された造形技術をつくるまでに自己を高めた。人間的なものが神的なものであり、有限なものが無限なものであるという、血となり肉となった確固たる意識が、力、深さ、情熱においてこれまでのすべてに優る新しい詩と芸術の源泉である。苦痛が詩の源泉である。神学においては、人間が神の真理、実在性、神を神として実現し神を一つの現実的な存在にするすべての述語、例えば力、知恵、慈悲、愛、更に有限なものとの区別を条件にもつものとして、無限性や神の子としての人格性でさえ、人間の内に人間と共に定立される。思弁哲学においては、無限なるものの真理は有限なものである。無限なものが規定され有限なものとして定立されるときにのみ存在し真理と現実性をもつとすれば、実際には有限なものこそ無限なものである。真の哲学の課題は有限なものを無限なものとして認識することである。無限なものを有限なものの中へ定立する。哲学の始まりは有限な規定された現実のものである。規定されたものが最初、一定の質こそ現実の質、思考された質よりも先に現実の質がある。哲学の主観的な起源及び道程は、またその客観的な道程及び起源でもある。質を思考する前に質を感じ、受動が思考に先立つ。無限なものとは、有限なものの真の本質、真の有限なもの、真の思弁あるいは哲学は真実で普遍的な経験である。抽象的なものから具体的なものへ、観念的なものから実在的なものへ、自分自身の抽象物を実現、実践哲学においてのみその場所をもつ。哲学は、あるところのものの認識である。事物や本質をあるがままに思考し認識すること、これが哲学の最高の法則であり課題である。誠実、単純、明確が真の哲学の形式上の目印である。感覚の実在性が質であり、感覚が真の実在性であるように、存在が意識の実在性であり、意識が存在の実在性でもある。精神と自然との真の統一はただ意識だけである。規定、形式、カテゴリー、或いは何と呼ばれようと、思弁哲学が絶対者から剥ぎ取って、有限なもの、経験的なものの領域へ放逐した一切のものこそ、有限なものの真の本質、真に無限なもの、哲学の真実で究極の奥義を含んでいる。空間と時間はすべての事物の存在形式である。ただどんな場合でも時間と空間の立場に立っている人だけが生活においてもまた臨機応変の能力と実践的知性をもっている。思弁哲学は時間から切り離された発展を絶対者の一つの形式・一つの属性とした。思弁的な気ままの真の傑作であり、時間なき発展とは発展なき発展と同じである。絶対的存在が自己内から発展する、発展する存在、時間のうちで自分を展開していく存在だけが絶対の真の現実的存在である。空間と時間は、現実的な無限なものが顕現する形式である。窮迫した存在だけが必然的な存在である。悩むことの出来るものが生存に値し、苦痛にみちた存在だけが神的な存在である。哲学の本質的な道具、器官は、能動性、自由、形而上的無限、および観念論の源である頭脳と、受動性、有限性、欲求、および感覚論の源泉である心情である。理論的に言い表せば思考と直観である。思考は頭脳の欲求であり、直観感覚は心情の欲求である。思考は学派や体系の原理であり、直観は生命の原理である。直観においては私は対象によって規定され、思考においては私が対象を規定する。思考では私は自我であり直観では非我である。直観は、現存在と直接に同一である本質を、思考は、現存在からの区別・分離によって媒介された本質を与える。本質に現存在が、思考な直観が、能動に受動が、ドイツ形而上学のもつスコラ的な粘液質とフランスの感覚論および唯物論のもつ反スコラ的な多血質の原理とが結合されるとき、そこに生命と真理がある。

