生まれる前から生まれ産まれてから16歳から今迄枠として。
世界の根源に神に16歳から中心核に位置する枠だ。常に客の意見を取り入れていく、常に客のために顧客と共に業務をつくっていく、客の望むこと望むものを実現する、そういう姿勢が精神が企業には必要だ。仏教的な無常観が諦念を究極的な歴史態度とするのに対して、へーゲルの諦念は「理性的な世界秩序」といった体系的・構造的・客観的な歴史像に至るための一手段なのであった。理性的な世界秩序を展望出来るが故にへーゲルは特殊な歴史事象や個々人の運命に対して徹底して無常なものと見なすことが出来た。普遍的な秩序への展望と個別的な偶然性の捨象という一見ごく自然な体系的歴史姿勢の内には、立ち入って見るとへーゲルの歴史意識の苛烈さ凄まじさが覗いている。世界史の哲学に付随する唯一の思想は、理性に関する単純な思想、つまり理性が世界を支配し世界史もまた理性的に進行しているという思想である。民族の諸々の事件の中には究極目的が支配していること、世界史に神的絶対的理性が存在すること、我々の前提する真理である。その真理を証明するのが世界史論考そのもの、この論考は理性の像であり行為だからである。宗教的見解によれば、自然存在の目的がそうであるように、精神活動の目的も神の栄光を称えることにある。実際それは精神と歴史の最も価値ある目的である。絶対者の意識を唯一無二の真理として獲得すること、一切をそれに従って整除すべきものとし現実にそれに従って整除すること、絶対者が現実に世界史を支配史を支配しているし、してきたことを認めること、それこそが精神の目的である。こうしたことを実際に認識することが神に名誉を与え真理の栄光を讃えることとなる。キリスト教の神と厳密に同一といえる？ヘーゲルの主観にとっては、この神はキリスト教の神を哲学的に表現したものであった。歴史における理性が神の顕現だとすれば、歴史の合理性現実性を把握する歴史哲学は神の合理性現実性を論証する学問と名付けても良い。歴史が合理的であることを説き明かすことは神が歴史のうちに存在することと同じ意味を持つ。神は論理の世界にも自然のうちにも芸術や哲学や宗教のうちにも自己を啓示するとされる、ヘーゲルの歴史意識は自ずから神に触れるように存立していた。歴史像の孕む苦悩や悲劇を鎮めるために青年へーゲルは歴史を運命の必然と見なし沈痛な散文叙事詩のうちに表現した。歴史の真実をありのままに把握するという意味をも担っていた。青年へーゲルにとって、歴史の真実とは陰惨を極める運命の悲劇、矛盾を孕みつつ破局に向かう運命の悲劇であった。悲劇の歴史像に光明を齎したのは国家統一への気運の高まりという現実の事態であった。統一への歩みが自分の筋書きに沿って進むのを見届けたとき、時間的な現実たる歴史を捉える目も、漸く肯定的なものになっていった。悲劇の歴史は理性の歴史、神の歴史へと書き換えられる。「この恐るべき犠牲は、誰に、どんな究極目的に捧げられたのか」という気負った問いは、歴史意識の転換にあたってのへーゲルの断固たる決意を表明するものだ。この問いに真正面から答えきることが体系家へーゲルにおける歴史の思想であった。歴史上の無数の犠牲は歴史の理性的な発展に捧げられたものであった。恐るべき犠牲は歴史の理性を歴史の神を歴史の理念を実現する為の手段であった。究極目的たる歴史の理性を実現するのに何故これほどの恐るべき犠牲が払われなければならなかったか、疑問は究極目的と手段の結び目に集中する。人類史を巡る一切に決着をつける最後の審判は刻一刻歴史の中に刻み込まれているというのが現実の哲学的合理性をいうへーゲルの基本的立場であった。そうした理性が現実の直中に働いていると考えるからには、究極目的たる歴史の理性は恐るべき犠牲に値するか、歴史における個々の人物や行為、個々の具体的な事件を通して、それらの人物や事件のうちに実現されるというのが歴史の弁証法の本質であった。この絶対的に普遍的かつ実体的な歴史の理性に対して、他の一切は従属的な位置にあり仕え手段となる。理性は歴史的な実在の内に内在し、それを通して成就される。歴史は理性が自己を貫徹する場となった。あらゆる歴史事象を論理的に抽象化することによって初めて理性的秩序の普遍性は確保された。普遍的理念の支配する理性の歴史と特殊な情熱の支配する事実の歴史という二段構えの構図は、国家と市民社会の対立図式を容易に連想させる。法の究極目的であり法の最高の普遍性を体現する国家と、個々人の特殊意思が跳梁しエゴイズムとエゴイズムがぶつかり合う市民社会との対立図式を。個々人の特殊な欲望や情熱や意思、個々の集団や事象に含まれる特殊な価値や意味、そうしたものを全て振り捨てることによって普遍的な絶対性を獲得し得ているという点で、空間としての現実たる国家と時間としての現実たる歴史とは見事に符節を合している。個人が国家の地平に現れるには国家の普遍意思に自己を一体化させる、個人が歴史の地平に現れるには歴史の目的や価値を一身に具現する世界史的個人となる。経営者の哲学や理念、ビジョン、戦略などを社員が共有する。組織としての統一性と小集団の活力が調和し大きなパワーを生み出す。会社全体として現場が元気になり目標実現への活力を取り戻してきたことを感じている。原動力だったアメーバ経営が復活し改めて機能し始めた。自ら目標を立て達成に向けて全力を傾ける。その生き生きとした仕事の結果として数字はついて来るものだ。創造的な仕事をする際には自主的な意欲が必要、失われた10年以降、経営と社員の関係はドライに金の関係の要素が強くなった。知識情報社会の企業競争力を高めるという観点からもモチベーション重視の経営が重要になる。日本企業は今、株主価値の最大化や成果主義を掲げた金銭的目標追求の虜になっている面がある。金は重要だが目的達成のための手段である筈、何かを成し遂げ卓越しようとするのが職業人生の本質、個々人の潜在力を集めて創造的に組織化し世の中に新しい価値を生み出すべく努力するのが企業の本質だ。『我等（神）は汝から覆いを取り去った。今日こそ汝の目は鋭く見通すことであろう』これらの想念が心に浮かび全身を貫流するや癒そうと努めた。やがて至高なる神は病を癒し給い、私は健康と心の平衡を取り戻した。理性の必然的知識が安心と確信のもとで受け入れられ信頼できるものとして帰って来た。それは証明を重ね議論を組み立てることよりは至高なる神が心に投入し給うた光によって実現した。その光こそ大部分の知識の鍵である。神は導こうとお思いになる人には、イスラム（絶対的帰依）を受け入れ易いようにその胸を広げ給う。至高なる神が心の中に投げ入れる光のことである。迷妄の館（現世）を離れて、久遠の館（来世）に向かう。彼（その上に平安あれ）が「神は暗闇の中で万物を創り給い次にその上に光を照射し給うた」と言われたのは、そのような光のことを言った。その光は時として神の寛大さの中から自由に流れ出て来るもの、人はそれを心して待ち受ける。あなた方の過ごす日々の流れの中に慈愛の微風を起こし給う。心してそれに備えよ。
