生まれ産まれてから16歳から今日終える。
彼女と骨髄と宇宙さえ出来れば生きて居られる、人生軌跡道程過去一点に戻って時計の針を巻き戻してでも全部やり直す。極限まで頑張ったがどうやら駄目です、このまま死に消え去る以外の選択肢は無いのか？バラバラに分裂拡散していて混沌、そのもの全体全面まで広げ広がり統制を執る、それこそ自己自分自身である。16才から軌跡道程の若き日々の力よ甦れ蘇れ、人生最も優れた16才から軌跡道程全当時の今枠脳心身体である。力は無限、領域は無限大、細胞数は∞、多元重層的に複雑に絡み合っている。宇宙へ送れるサービスは沢山あったのだから早くに宇宙へ字を名前をメッセージを送っておくべきだった。時計の針を巻き戻して時間を戻って人生軌跡道程過去一点からやり直す。アポトーシスとは生体から余計な部分を削ぎ落とし彫刻するようなもの？脳細胞神経伝達ネットワークをも吐き出し押し流し広げ広がり更に真の姿が現れる。能力も領域も何処までも無限に広がって行く、そのもの全体全面ごと自己自分自身である。倫理とは人間共同態の存在根底としての秩序である。存在の仕方自身はただ行為することにおいてのみ露わにせられる。いかにして我々は我々自身を把捉することが出来るか、反省とは他者に突き当たることによって己に還って来ること、己に還り得るのはその他者が本来己自身だから、主体が外に出ることによって客観となり得るが故に我々はまた主観としてこの客観に対立し客観を通じて主体自身を把捉し得る。人間という主体的なる者を主体的に把捉する為には我々は人間ならざる物を通過する、物を表現として即ち外に出た我々自身として取り扱う立場である。物は表現であり外に出た我々自身である。倫理学は人間存在の学として一切の物における人間生活の表現を目指し、道具はもとより、身振り、言葉、動作、作品、社会的制度という如き特に顕著な人間存在の表現は、それを通じて実践的主体を把捉するが為の通路、一切の表現は実践的な間柄における主体的な存在の表現である。一切の表現は実践的な間柄における主体的な存在の表現である。間柄の表現は了解せられることを通じて間柄自身を発展せしめる。間柄は自覚的な存在になる。人間存在はかくのごとく己を外化し表現することを通じて絶えず己を自覚的に形成し行くところの存在である。具体的な人間存在はかかる層の無限の重畳である。人間存在は、実践的行為的な間柄として既に無限の表現や了解を含み、その表現はまたそれ自身の内に無限に多くの他の表現や了解を含み、単純な初次的な存在の表現から無限に複雑なそれに至るまで無数の段階を数える。実践的行為に既に無数の層において了解せられ、その存在の仕方は実践的行為的に既に自覚せられている。統一分離結合の連関において初めて統一の自覚が成就せられる、人間存在の根本的図式、陳述とは人間存在の表現、人間存在とは間柄における行為的連関、行為的連関は既に無限の表現や了解を含んでいる。自他の連関の実現、言葉はその最も発展した表現の手段である。自他に分離しつつ間柄として合一、分離はあくまで統一における分離、自他とは本来一である故に自他不二的に連関する。実践的行為的連関として間柄が存するということは統一分離結合の連関があること、絶対的統治とは絶対的全体性の統治あるいは民族における神性の統治、神的でありそれ自身において権威づけられたもの、普遍的統治は現実の統治を取り扱う、全体の運動とは普遍と特殊が絶えず分離しつつしかも特殊が普遍の下に包摂せられて行くこと、特殊に対立せしめられた普遍、形式的普遍性への観念的な包摂、具体的普遍性への実在的な包摂、『人倫の体系』人間の存在構造の分析、人間の存在を個別と普遍との統一において把捉しようとする意図は全篇を貫いている。ヘーゲルの考え方として注目すべきは個別と普遍との統一が一面において個人と社会との関係を意味すると共に他面において主体と客体の関係を意味している。主体が客体化することを通じて己を実現するという過程は特に衝動の段階において顕著に説かれ、抽象的に個人として措定せられたものはその本質においては生ける全体性であり、人倫の体系において展開せられるあらゆる契機は具体的なる人間存在のそれぞれの契機として最後に到達せられた具体的普遍を絶えず前提としつつ理解せられる。
