異常な事態は何時ものことだ。
このようにして、精神的要素〔心〕が集中され純化され明朗に遍く照らされ、あらゆる不純や俗世の煩悩から解放され、柔軟かつ従順で、確固かつ不動となってしまうと、その人はこの精神的要素を洞察的観照（もしくは観照的洞察〔智見〕）に振り向ける。そこでまずその人の観照の対象となるのは、自己の身体であり自己の存在性であって、それを今度は二つに分けて観察する。その第一は肉体的な存在性である。それは四大元素から構成され、肉体的遺伝の産物〔父母所生の身〕であり、崩壊と解消との制約を内蔵している存在性である。そして第二の存在性は、肉体性を貫き通している精神意識の原理〔識〕である。精神が一点に集中されて、純粋明朗で、煩悩を離れ、不動の状態に達すると、修行者は精神を傾けて、ある別の霊的ないし霊気的な身体〔意所成身〕を形成することに努める。この霊的な身体は身体としてのあらゆる部分と感覚器官とをそっくり具えている。この霊的ないし霊的な身体を、修行者は自己の肉体的身体の中から引き離す。それはあたかも、葉鞘から葉を、鞘から剣を、皮から蛇を引き離すようなものである。そして瞑想者はあたかも外的形象を眼の前に見るのと同じように、自己の本質をこの二重の姿として眼の前に見るのである。霊体が肉体から分離する超感覚的な意味での過程に伴う一定の想念を描く。瞑想者はこれを道具に用いて超感覚的な完成、つまり一層高度な精神力の諸奇跡〔神通、神変〕を表現することが出来る。道の修行者は瞑想によって従順になった自分の霊体を材料として細工し、これによって神変の諸形態としての超感性的奇跡を出現させる。列挙されている奇跡の諸現象は、一つの事象を多数にすること、大地の重力を克服すること、月や太陽までも彼は手で触れて撫で、ブラフマンの世界にまでも彼は自分の身体をもって勢力を及ぼす。身体をも動かすような霊的な精神集中と瞑想とによって如来の身体は高度の軽さを持つようになり、そのことによって一段と柔軟従順で輝きを増すようになる。神足とは超感性的完成に到達するための前提ないし要素であって、“意欲〔欲〕”、“精力〔勤〕”、精神的要素“〔心〕”、“形式的創造〔観〕”の四である。瞑想によって四種の神通力を身の内に強め、それらのうちに活動する力を持ち、それらを実現し、あやつり、思うままにする者は、それによって肉体における生命を自分本来の期間を越えて延長する能力をも持つことになる。ガンジス河が絶えず東に進み向かい流れて行くように、四神足を瞑想する修行者は涅槃に向かい涅槃へと急ぐ。目標の達成への道程で必然的に生じてくる現象の一つであり、この目標を達成するための手段である。以前の生涯を想起する。過去の生涯への想起が成り立つ。潜在意識的構想力〔行〕として現れてくるものはカルマ〔業〕つまり一つの生涯のあいだの行為の総計であって、前の生涯の潜在意識的な記憶が後の生涯の中に持ち込まれた。瞑想者は世の始め〔劫初〕、世の終わり〔劫末〕、または世の最盛期〔劫住〕に、一度ないし幾度か、ないし数え切れないほど何回となく、誕生したことを思い起こす。法外な時間をかけて連続する宇宙的周期〔劫〕のあいだに、周期的リズムで世の終わりと新しい世の始めとが繰り返される。すべての存在領域における彼らの運命を決定するものが業なのである。瞑想者は“天上界的、洞察的、超人的な眼”で、あらゆる生き物が様々な世界領域を通って入り組んだ道を行くのを、宛ら絵のように観ずる。苦悩と苦悩の克服とについての英知である。修行者は与えられた運命に満足し、平静でしっかりした外面的態度をそなえ、次に自分の中になお残存しているあらゆる煩悩から解放され、内なる心を浄化し、その結果、“正しい沈思”〔正定〕のなかで自己の内面への道を発見することもでき、かくして徐々に瞑想の段階を次々に上昇する。修行者は瞑想する時に、自分の身体をいわば傍観者として観照し、物質的身体から霊気的かつ霊的な身体を引き離し、かくして洞察的省察の能力を得る。自己の内面を深く瞑想し沈思することによって仏陀は世俗的なものの無常性、生老病死という苦悩を自ら体験した。瞑想によって“虚空の霊気の無限性”〔空無辺処〕にのぼる。修行者は瞑想する際に、それぞれの瞑想段階において、彼が前の段階で自己だと知覚したものを放棄する。嘗ては元々一つだったんだ、また元通り一つに成り戻るだけだ。また心も身体も全身の全部の毒素が抜け飛んで意識も飛んでスッキリした。
