真に生きようとして自己からの超脱を目指す。
最も強力な種族の祖先は必然的に一つの神に変形される。発達の全行程を予め終わりまで辿ってみる。全世界中の全知識内容を知り尽くしている、それを再確認しているだけだ。世界は永遠にして、その直中を我が魂は経巡り生命の海に漂い神のみを知る。天国で目覚め父神の宮殿にあって天上の至福として天と地と空を眺める。大海が血管の中に流れ込み、天界で身を包み、星を冠とし、全世界の唯一の後継者であると自任する。神の内に、神と共にあるすべての存在者が合一する。万物の中にも一者の中にも生きられる。愛は何とすべてに行き届いたものか、万物の中に住めば住むほど益々一者の内にも住む。神の自分自身への愛は人間への愛であり、人間への愛は神自身に対する愛なのである。神と人間の両方は合体して一つに、神のすべての業の中にあることを神同様に喜ぶ。ランケの世界史の流れによれば・・多くの哲学者と一緒になって、全人類は与えられた原始状態から一定の確かな目標に向かって発展し続けてきた、と仮定しようとするならば、それには二つの考え方が可能であろう。すべてを導く一つの意志があって、人類の発展を一つの点から他の点へと推し進めるとするか、あるいは人類の中に精神的な特質があって、それが事態を必然的に一定の目標に向け駆り立てるとするか、この何れかであろう。第一の場合には人間の自由は完全に破棄され道具にされ、第二の場合には人間は神であるか無であるかでなければならない。人類の極めて多くの部分が現在もなお原始的状態にあり、出発点そのままである。偉大な歴史的発展の諸要素が定着し、段階的に発展する精神的な力が存在している。歴史には、すべて人間精神の歴史的な力があり、それは原始時代に起こされ、ある種の恒常性をもって続けられている一つの運動である。人類の継続的運動の本質は何か、人類を支配する偉大な精神的諸傾向が、あるときには相分かれて現れ、またあるときには相連なっているという事実に基づく。各々の時代はどれも神に直接する、時代の価値はそれから生まれてくるものより時代の存在そのもの、そのもの自体の中に存する。この故にこそ歴史の考察、しかも歴史における個体的生命の考察が全く独自の魅力をもつ。歴史家は、まず第一に、人間が一定の時代にどのように考え生きたかという点に注目し、各時代がそれぞれ特殊な傾向や固有の理想をもつことが明らかになる。第二には個々の時代の間の相違をも識別し、その連続関係の内的必然性を考察し、ある種の進歩、直線より寧ろ河川がその独自の進路を拓いて進むような進歩を主張したい。神は歴史上の人類を全体的に見渡し同じ価値を認めている。人類の教育という考えは確かにそれ相応の真実性をもつが、神の前においては人類のどの時代もすべて平等の権利をもち、歴史家も問題をこのように見る。ヘーゲル学派によると、人類の歴史は一つの論理の過程のように、正‐反‐合という形で肯定と否定という関係で織り成されている。一人理念のみが独自の生命をもち、人間はすべてこの理念によって充たされた影像もしくは幻影、また必然的に汎神論に帰着する。人間は神に成りつつあり、その本性に具わる精神的過程によって自己自身を生み出すというのである。歴史家は、各世紀の大きな傾向を分析し、これら種々の傾向の複合体たる人類の大きな歴史を示す。神の理念という立場からすれば、人類は限りない発展の多様性を自らの中に蔵し、徐々に法則に従って、人が考えるよりも遥かに神秘的かつ偉大に現れてくるのである。歴史を追ってゆきうるかぎり、無条件の進歩は物質的なものに関係のある領域では認められる。精神的な理念も外延的には進歩する。人々の宗教的実験と神秘的なものへの興味は、自ずから神秘主義へ行き着くことになった。多くの宗教が神秘的なものの存在を訴えていることは、人間の魂の内部にあるものが普遍的であることの証明である。それは同時に、それぞれのドグマによって隔てられることはあっても、宇宙的一者に対する希求をもつ各宗教の間には、真の繋がりが存在するということでもある。「新神秘主義」と呼ばれてきたものは、多くの様々に異なった形の体験と探求を包括したものと考えられている。合一のヴィジョンが存在し、そこでは多くの対象の中に、あるいは対象を通して感覚によって一者を覚知する。その結果「すべては一である」。一者は、内的生命、あるいは万物の内に現存するものとして把握され、その結果、万物は生きている。実在感があり、その実在感は客観的かつ真実である。満足、喜び、至福感がある。聖なるものの感じがあり、それがこの体験のとりわけ宗教的な要素である。
