知恵を磨けば磨くほど謙虚になる。
素敵な年というものは自分で造るものであります。夢を持っている人は美しい。そしてその夢の実現に努力している人は、もっと美しい。自分が生きてきた枠組みを破壊される。異なった無限の可能性を拡げるから学問は我々を若々しくさせる。老化というのは孤立化し小さく固まり出るのが億劫になっていくこと、オープンマインド、あらゆる人に対して心の窓を開く。テンダーマインド、人に対し限りない思いやりの心を持ち親切になれ。タフマインド、自分に対して厳しくなれ、まだ学びが足りない。この男は無限の可能性である。良樹細根、良い木は細かい根っこを持っている。大樹深根、大きな木は深い根を持っている。これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。論語からナムコ創業者である中村雅哉がとり、知好楽、ナムコ系ネットカフェの店名となった。宇宙飛行士の毛利衛さんの連載とか良い感じ、大学教授とかジャーナリストの連載も良いが。東大教授で放送大学でも講義してる合原一幸がカオス理論専門で脳神経ネットワークにもどれだけ応用出来るかなんて言ってたが「死滅した脳細胞は再生しないと長年言われ続けていたが実は幹細胞から再生する」「神経を抑制する物質が実は興奮させる物質か」なんて新発見かなんて言ってたが、所詮専門外かな脳と精神世界は全生物学的分野の中でも最も未知の分野、東大理学部でも医学部でも脳神経科学を扱ってたが、脳は宇宙のように人体最後の未知の海なんだ。理学部でも生物学的に脳の世界が問題となる。自分の脳に薬剤性パーキンソンアルツハイマー症状が起こっている可能性高いが、東大病院脳神経科が一番かなー。あーあ、もしこの心が清浄で枠に土台あり安定していたなら、誰かを誘う事だって出来たかも・・素質も能力もあったが如何せん運も勘も悪く肝心大事重要なところで時流を見誤り時節を外す、ただその繰り返しで失敗後悔だけの人生だ。時期によって違い差が有り過ぎる、あの時こうしていればこの時ああしていたら・・あの子にも相手がいるのか・・もう人生何もかも全部ズタズタバラバラガタガタボロボロだ。地球帝国という概念、それは生活の共通化、普遍化する経済システム、産業集積と企業集中、国際インフラの統一などの様相から、2000年代初頭に誕生した。地球は一つの国、一つの経済圏として完全に統一された。我々は一足とびに人類を遥かに越えたところに移る、人類を越えつつ人類に到達する。宗教の言葉を語るか哲学の言葉を語るか愛の問題であるか尊敬の問題であるか無関係に、異なった道徳、別種の義務が、社会的圧力の上に、これを越えて重ねられる。自然的義務は圧力または推進力であるのに完全なる道徳は呼び掛けの作用をもつ。我々が第一の状態から第二の状態に移行し得るのは、自己拡大の過程によってよりも、外面的な現象を取り除いて実在に到達するときに道徳の両端に圧力と切望を見出す。前者は非個人的で習慣と呼ばれ時には本能とも呼ばれる自然力に近いほど完全なもの、後者は一定の人々によって我々の心の中に明らかに惹起させられるほど一見自然を征服する程度の強いほど強力なのである。ベルグソンの学説は、しばしば、生物学的哲学、生の哲学及び自然の哲学といわれていたのであるから、彼がその最後の著書で、この領域を遥かに越えた道徳的及び宗教的理想に向って行ったと思われることは、誠に驚くべきことである。人間が社会的連帯感情を拡大し人類同胞愛をもつに至るときは人間が自然を出し抜いているのである。人間は自然を出し抜いた行動をしている。人間精神の自然的構造中に予めそのデッサンの画かれているような社会は集団が内部的にしっかり統一することを要求したけれども同時に集団と集団の間には本来敵意のあることを要求した。知性は自己自身の力で拡大し予期した以上の発展をした。知性は自己の本性のもつ限界故に定められていた運命的な制限から人間を解放した。特別の才能をもつ人たちのある者が閉ざされているものを再び開き少なくとも彼ら自身のために行う。ベルグソンの倫理学は彼の形而上学の結論であり系コラリーである。彼が企てた仕事は、人間の倫理的生活を彼の形而上学的体系によって解釈することであった。彼の自然哲学において有機的世界は二つの対立した力の間の闘争結果として記述された。我々は、一方において物質のメカニズムを見出し、他方においてエラン・ヴィタール（生命の飛躍）の創造的及び構成的な力を見出す。生命の振子は常に一方の極から他方の極に揺れている。物質の慣性が生的衝動のエネルギーに抵抗する。ベルグソンによれば、人間の倫理的生活は、能動的及び受動的原理の間の同じ形而上学的闘争を反映する。社会生活は我々が生物の生活に見出す一般的過程を反復し反映する。それは二つの対立する力に分割されている。一つは事態の現状を維持し永続せしめようとする傾向、他は以前以上の人間生活の新しい形態を求めようとするもの、最初の傾向は静的宗教の特性であり第二のものは動的宗教の特性である。人類は一方の点から他方の点に即ち受動的から能動的に社会的圧力から個人的な自立した倫理的生活に、ただ急激な飛躍によってのみ到達することが出来た。形而上学的体系は現象の単なる分析的記述よりも終局の原因に遡り辿る。静的宗教から動的宗教への移行を示すものは思想の急激な危機であり感情の革命である。
