積み重ね上げ広げ広がり続けた軌跡道程が今である。
頂上点に立つ今である。中心核枠に成れれば何もかも全部思い通り、女も抱き捲れる、それまでの辛抱だ。苦悩についての命題が、仏教でいう意味で、内面的に認識された真理となり、智となるために、正しい信条から正しい道を歩む。道の最後で最高の段階に至って初めて、この“真理”が修行者の霊眼に開示される。苦悩についての真理を真の認識として獲得する。ヨーガとは、超感覚的な認識および能力を獲得し、更にそれ以上に、解脱目標に進むために、秩序正しく実修する精神統一と瞑想とをさす。哲学は与えられた意識形式の範囲内にとどまり、この意識に基づいて、通常の論理的思考の方法を用い、認識を獲得し、実存問題の解答を得ようというのであるが、ヨーガは瞑想的精神方向であり、意識をいわば変化し得る要素と考え、与えられた意識形式を超越し、高次の認識に達し、更にまた、あらゆる認識の彼岸に存する最高の霊的目標に到りつこうというのである。見れば見るほど美しい素晴らしい。顔色、眼の色、心の色、一瞬色を失った。他は未だだとしても、枠の軌跡道程だけは今直ぐ枠にあってもいい筈だ、あって自然当然当たり前なんだ、それだけでも枠にあれば神に等しい。半袖着るのは嫌いだけど長袖を腕まくりするのは好きだね、16歳の少年は。16歳の少年には輝かしい未来が広がっている。背も力もまだまだ伸び延びる。枠自体の頭も心も体も完全に切り取られ割られているのだ。脳にも心にも身体にも底の底から湧き上がって来る絶対圧倒的なパワーがあるのだ。やはり16才とは全然違って圧倒的な脳の力のパワーの足りなさを感じる、砂糖で補給できるのか・・頭の許容量キャパシティも無限大！！今の時点現段階では、あまりに力が足りな過ぎる、総花多角全面的に枠の領域とするなる。日常意識から脱出して、その内面に心霊の変化が目覚めてくる。与えられた意識形式を超越するための修行である。超感覚的なものを直観するもの、感覚をこえて直観するもの、偉大な神仙、超感覚的な世界を直観し、超感覚的な世界に住むものたちと交わり、その世界の力を働かせる。彼らはまことに神々の饗宴に列席し、神聖な世界秩序を保持する太古の神仙であった。かの父祖たちは隠れていた光明を探し当て、真理の呪文によって暁の光を明るみに出した。宇宙および人間の内部に宿る神の本性、世界に遍満する超感覚的な存在、神聖な言葉という形で、またその言葉を保持する彼という形で、具体的に示される。本源的精神が思念によって宇宙熱を燃え立たせて世界を創造する。一種の神秘的で内面的な火を燃やす、燃焼、烈火、タパスとよぶ。心霊の濁り、煩悩の妄想は、意識においては現実の表象として、また潜在意識においては潜在的にいわゆる行として存在している。したがってまた同時に潜在意識的な構成力である。これらの力によって再生と運命と苦楽の総計とが作り出され、その心霊は生死を繰り返しながら、自分が前に作った業の報いとしての苦楽を受ける。高次の認識の立場からみれば、これら業の果報はすべて苦しみである。仏教の“苦悩についての命題”。心霊が苦悩を克服するのは、浄化の過程によるのであって、その過程において、霊的存在〔神我〕は感覚世界の束縛から解放される。この浄化過程がヨーガでいう八段の道である。心霊の浄化は完成し、純粋という点ではその霊的な本源の姿である神我と等しくなり、神我は今や可見的なものの世界から解放されて“自主的存在”〔独存〕に到達したのである。千里眼や高次の精神力などの能力は既に現れている。障害を取り除き、それによって、はじめから心霊の中に潜在的に存在しまどろんでいいくつかの能力を展開させる。正しいものをまず信仰として受け入れ、それを思考と言葉と行為とにおいて、生活全体と努力とにおいて、表現するさせる。それをいつも念頭におく〔正念〕ように、最後にはそれを心霊の中に取り入れて内面的な沈思瞑想〔三昧〕するようにと命令する。八正道である。三昧を越えて更に進展する。瞑想から認識が生じ認識から解脱が生ずる。内面的に平静で活気に溢れ道の諸段階を昇って最高の歓喜にまで高まって行く。誕生から苦悩が生じ、苦悩から信仰が、信仰から悦楽が、悦楽から歓喜が、歓喜から心の平静が、心の平静から安楽が、安楽から瞑想が、瞑想から正しい観照的洞察〔如実智見〕が、その洞察から欲情の否定が、欲情の否定から解脱が生ずる。道を歩むに際して、縁起として生起する段階の系列の中で、苦悩は歓喜と認識と解脱とに到る途中の通過点にすぎない。倫理的なものはすべて、精神統一のための予備段階であり、かつまた、この精神統一は、あらゆる洞察のため、ならびに更にその洞察を越えた彼岸にある解脱目標のために必要な予備段階なのである。瞑想は、愛〔慈〕と哀れみ〔悲〕と喜びをともにすること〔喜〕と不浄や悪に対して平静なこと〔捨〕という四種の感情によって遍満されているという。仏教ではこれを四無量心と名づける。瞑想する際に無限に拡張して行く感情という意味である。瞑想する者は、自分の愛と哀れみと共にする喜びと平静との光明をもって、あまねく四方を満たすという。実践の適用範囲をあらゆるものにまで拡大した。こんなに物凄まじい無限の力が全身体中に溢れ漲っているのに心は驚くほど至って静かだ。
