立派で素敵な男性です。
世界史は道徳の本領たる、私的な心情、個人の良心、個々人の意思と行動といった場面よりも高い次元を動く。精神の絶対的な究極的目的が要求し成就すること、若しくは神の摂理が行うことは、個人の道徳性にかかわる義務や責任能力や要求をこえたものなのです。世界史的個人といわれるような大人物たちの行為は、内面的な意味で正当化されるばかりでなく、世界の流れという立場からも正当化されます。天才、才能、芸術、学問といった一般観念があらわれるところでは、精神形成のどの段階でも形式的な教養が栄え立派な花を咲かせる可能性があり、そうなるのが必然でもあって、精神はやがて国家を形成するにいたり、国家という文明の基礎の上に、分析思考や法律やあらゆる一般観念を生み出すからです。国家生活のうちに形式的な教養を生み出す必然の力があり、こうして、学問や形の整った詩や芸術が生まれる。言語はそれ自体で高度な知的形成を行う。自由は自覚されるものであり思考と同一の根を持つ。人間が自由を意識するということは、個人が自分を人格として捉えること、すなわち、個でありながら内部に普遍性をもち、あらゆる特殊なものを捨象し放棄できる、無限の存在として自己を捉えることです。具体的な民族精神こそ私たちの明確な認識対象、民族のあらゆる行為や活動のうちに浮かび上がるのが民族精神であり、民族が自己を実現し自己を享受し自己を捉えた姿が民族精神です。民族精神にとっては自己を生み出すことが課題なのです。精神にとっての最高の働きとは、自己を知り自己を直観し思考へと齎すことです。精神はそのようにして自己を成就し、この成就は同時に没落であり、他の精神、他の世界史的民族、世界史の他の時代の登場です。この没落と交替が一つ繋がりの全体をつくり出し、それが世界史の概念をなす。自然という形を取った理念が空間の中で展開していくとすれば、世界史とは精神が時間の中で展開していくものです。世界史を一渡り眺めてみると、そこには目も眩むような色とりどりの変化や行為、無限に多様な形を持つ民族や国家や個人が次から次へと登場します。人間の心に入り込んで興味を呼び起こすすべてのもの、善、美、偉大に関するすべての感覚が自己を主張するし、私たちの承認を得、私たちの実行意欲をかきたてる目的が、あらゆるところに登場します。それらは希望の対象にも恐怖の対象にもなる。こうした事変や偶発事のすべてには人間の行為と苦しみが露出している。変化を眺める人の胸に湧き起こるもう一つの思いは、移ろい行く変化が、同時に新しい生命の登場であり生から死が生じるように死からは生が生じる、という思いです。精神は自分の存在の外皮を食い尽くし、灰となった後に若返って他の外皮に移り、より高貴で輝かしく純粋な精神となる。自分と対立し、自分の存在を食い尽くしながら加工し、その教養が新たな教養をつくりだすための材料となる。精神の変化がたんなる移行や若返りや元の状態への帰還というにとどまらず、自分の試みのための素材を多面的に加工していくことであるのを考えると、精神とは幾つかの方面に向かっての自己実験、自己格闘、自己享受であるのが分かる。自己と関わり続け、満足のゆく創造がなされると、それが精神にとって新たな素材となり新たな加工が要求される。たんなる変化という抽象的な思想に変わって、自分の力をあらゆる方面に向かって発揮し発展させ充実させていく精神、という思想が生まれてくる。精神にどんな力が蓄えられているかは、精神の多様な産物と形成物から見てとることができます。精神は歓びに満ちたこの活動のなかで自分だけに関わります。精神が、内外の自然条件との関わりのなかで抵抗や障害にぶつかったり試みがしばしば失敗に終わったり自他の力で混乱に引きずり込まれ身動きできなかったりすることはある。しかし、精神は自分の使命を全うし自分の力を発揮して没落していくのであり、精神的な活動の行われたことは目に見える形で示されます。精神はその本質からして行動するものであり自分本来の姿を行為ないし作品として示すものです。自分が対象となり自分の存在を目の前にします。民族精神も同様で、それは一定の輪郭を持つ精神として自らを現に存立する一つの世界へと築き上げる。民族の存在は、既に出来上がった確固たる世界として目の前にあり個人はそれに帰一する。このように自分の作品と世界をつくりあげたとき、民族精神は安定した自足の状態にあるといえる。民族は、自己の意思を実現するなかで、公共心と高潔さと力強さを獲得し、また自分を客観化する労苦のなかで、外部の暴力からその作品を守ります。こうして、民族の潜在的で主観的で内面的な目的本質と、その現実の姿との間にある分裂が破棄され、民族は自分を対象として捉えつつ自足しています。そうなると精神は安息状態にある。真に普遍的な問題意識がかきたてられるには、民族精神が新しいものを意欲しなければならない。自分を更に高め更に一般化するイメージが生まれ、現行の原理がこえられるには、一歩進んだ原理が新しい精神として登場してこなければならない。自己完成と自己実現を果たした民族精神の内にも新しい原理が登場してくる。民族精神が肉体を持った個人と違うのは、それが共同の存在であり、したがって、自分を否定するものをその共同世界の内部に存在として含むからです。民族精神は普遍的な原理を根本要素とし根本目的とするかぎりでのみ世界史的な存在です。一民族の教養文化の最高点は、自分たちの生活や状況、法律や正義や道徳を思考ないし学問によって捉えることにある。思考の統一こそ精神の最も内面的な自己統一だからです。精神はその作品において自分の対象化を目指しますが、自分の本質を対象化するには自分を思考するだけ。思考の次元に達すると、精神は自らの原則たる行動の一般理念を認識します。が、思考の作り上げたこの作品は一般的なものであって、その形式からすれば、もとになる現実の行為や実際の生活とは違っている。一方は現実の存在であり、他方は観念的な存在です。
