精神的な活動は自分自身のなかで活動的な対象に向かって行くのである。
自分自身のなかで活動的な対象とは、自分自身を活動によって作り出されるはずのものへ自分自身で作り上げて行くような対象である。そのためにここでは、活動のなかに現存する内容と対象のなかに現存する内容とは一つの同じ内容である。こうして例えば、アレクサンドロス大王の活動やカエザルの活動が対象として働きかけた民族及び時代は、自分自身の力によって、あの個人たちによって成し遂げられるべき仕事に参加する資格をもっているものになったのである。時代があの人々によって作られたのと全く同じように、時代はあの人々を作るのである。あの英雄たちに彼らの時代および彼らの民族が彼らの事業を成し遂げるための道具として役立ったと同じように、逆にあの英雄たちは彼らの時代および彼らの民族の精神の道具であったのである。哲学する精神が外的自然に対して取る態度の様式は、今述べられた関係に似ている。自然は我々によって観念化され、自然に内在する永遠な理念または内面に働いている潜勢的自体的な精神自身が観念化、相互外在の廃棄、を引き起こす。精神の現存在のこの形態〔相互外在〕は精神の本質の内面性と矛盾するからである。哲学的精神はこのことを認識している。したがって自然そのものがどういうふうにして自分の外面性を廃棄し、自己自身にとって外面的なものを理念の中心へ取り戻すか、また自然そのものがどういうふうにして外面的なものにおいて理念の中心を現れさせ、自然の中に隠されている外面的という被いから解放し、そしてそのことによって外面的必然性を克服するか？哲学はいわばこれらのことをただ見守りさえすればよいのである。必然性からの自由へのこの移行は多くの契機の段階的進行である。そして自然哲学はこれらの契機の表現を形成しているのである。相互外在を廃棄する最高の段階、すなわち感覚においては、自然の中で捉われた潜勢的自体的な精神が現勢態＝自覚態、したがって自由の始まりに到達するのである。自然は、このようにそれ自身なお個別性および外面性という形態に纏われている現勢態＝自覚態によって、自分を超越して精神そのものへ、すなわち思惟を通して一般性という形態において独立的に存在するところの現実的に自由な精神へ駆り立てられるのである。自然が精神によって措定されており、そして精神が絶対的に最初のものである。現実的且つ自覚的な精神は精神自身の成果である。精神は自己自身を自分が設ける諸前提から、論理的理念と外的自然から、産出し、そして論理的理念と外的自然との真実態である、すなわち単に自己内にある精神と単に自己外にある精神との真実態である。精神は、精神を媒介するように見えるものを止揚し併合し、専ら精神によって存立するものに引き下げ、且つこのような仕方で自分を完全に独立なものにするという、いわば最大の忘恩を行う。精神への自然の移行は、自然において自己の外部に存在している精神が自己自身へ到達することである。人間が始めて自分を、感覚の個別性を越えて思想の一般性へ・自己自身についての知へ・自分の主観性の把捉へ・自分の自我の把捉へ高める。一言で言えば、人間が始めて、思惟する精神であり、そのことによって本質的に自然から区別されている。自然そのものに所属するものは精神の背後に横たわっている。精神はもとより自己自身の中に自然の全内実をもっている。しかるに諸々の自然規定は精神においては外的自然において存在する仕方とは全く別な仕方で存在するのである。このために精神の本質は本質的には自由である。すなわち自己同一性としての〈概念の絶対的否定性〉である。精神は、この形式的規定に従って、あらゆる外面的なものおよび自分自身の外面性・自分の現存在そのものをも捨象することができる。すなわち、精神はこの否定態において肯定的に自己を維持し、そして現勢的に同一であることができる。この可能性が精神の抽象的な自己内で充足している一般性である。精神の実体は自由である。自己を自己自身へ関係させることである。精神とは現勢的自覚的な概念であり、自己自身を対象としてもっている概念であり、実現された概念である。精神においては概念と客観態との統一が現存しているのであるが、精神の真理性と自由とは同時にこの統一のなかに成立しているのである。既にキリストがいったように、真理は精神を自由にし、自由は精神を真理にする。精神の自由とは他者の中で獲得されたものである。精神の自由は他者の克服によって実現される。精神は自己の抽象的な自己内で充足している一般性から、自己自身に対する自己の単純な関係から抜け出て、一定の現実的な区別、単純な自我とは別のもの、を、したがって否定的なものを、自己自身の中に措定することができる。そして他者に対するこの関係は精神にとっては可能であり必然である。精神は他者によって且つ他者を廃棄することによって、自分が自分の概念にしたがってなるべきところのものに、実際に自分がなり、また自分をそういうものとして確証するようになるからである。精神が自分の概念にしたがってなるべきところのものとは、外面的なものの観念性であり、自己の他在から自己内へ復帰する理念であり、自己自身を区別する一般者・自己の区別のなかでも自己自身のもとに且つ自己自身に対して存在する一般者である。したがって、他者・否定的なもの・矛盾・分裂は精神の本性に属する。この分裂のなかには苦痛の可能性が含まれている。悪（邪悪）現実的自覚的に存在する無限な精神における否定的なものもまた、自己の個別性の先端に立っている精神である。精神はそれ故に、自己のこの最高の分裂・潜勢的に存在する自己の人倫的本性の根源からのこの遊離・自己自身とのこの最も完全な矛盾においてさえも、しかもなお依然として自己自身と同一であり且つそれ故に自由である。精神は矛盾のなかにあっても苦痛のなかにあっても自己を維持しようという力をもっている。あらゆる意識は統一性と分離性とを含んでいる、したがって矛盾を含んでいる。精神の中に現存しているあらゆる内容を支配している威力が精神の自由の基礎を形造っている。現実的自由は精神の活動によって産出される。こうして我々は哲学においては精神を自己の自由の産出者として考察すべきである。精神の概念の全発展は精神が、精神の現存在のあらゆる形式から自己を解放する過程を表現している。この解放は、これらの形式が精神の概念に完全適合した現実態へと作りかえられることによって達成されるのである。この一般性はまた精神の現存在でもある。一般者は独立的現勢的に存在するものとして、自己を特殊化（分化）するものであり、そしてこの特殊化（分化）のなかにあっても自己同一性である。それ故に精神の規定性は顕示である。精神が掲示することそのことが精神の規定性であり内容である。それ故に精神の可能性は直接に無限絶対の現実性なのである。
