純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、一切はこれに由りて成立するが故に能く一切を超絶している。神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なり。我々が深く自己の意識の奥底を反省して見る時は神は「物なき静さ」「無底」「対象なき意志」語に深き意味を見出し、また一種崇高にして不可思議の感に打たれる。神の永久とか遍在とか全知全能とかいうようのことも皆この意識統一の性質より解釈する。時間空間は意識統一に由って成立するが故に、神は時間空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生じ神は全知全能、神においては知と能と同一である。神の属性は無限であるから、神は無限の世界を包含している。神は世界の永久の創造者である。神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。すべて意識現象はその直接経験の状態においては唯一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することに由ってその内容が種々に分析せられ差別せられる。もしその発展の過程よりいえば、先ず全体が一活動として衝動的に現れたものが矛盾衝突に由ってその内容が反省せられ分別せられたのである。対象なき意志ともいうべき発現以前の神が己自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由って主観と客観とが分れ、これより神および世界が発展すると言っている。元来、実在の分化も統一も一、一方において統一は一方において分化を意味している。ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である。」といったように、具体的真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。神は即ち世界、世界は即ち神、神すらも失った所に真の神を見る、天地ただ一指、万物我と一体、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来す。反省なる者が起り、現実であった者が観念的に、具体であった者が抽象に、一であった者が多となる。一方において神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出されたというのも、この真理を意味するのであろう。分裂といい反省といい皆これ統一の半面たる分化作用の発展である。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途である。神はその最深なる統一を現すには先ず大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覚である。基督教の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明となったのである。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、個人性は神の発展の一部、その分化作用の一、凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成する。この意味において個人性は永久の生命を有し永遠の発展を成すといえる。神と個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に各自が独立の意識である。万物は唯一なる神の表現である、時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に各自が独立の意識と見ることもできる。一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得る。愛は人格の欠くべからざる特徴である。両人格の合一、愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成する。神は無限の愛なるが故に凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認める。悪は実在体系の分化作用に基づく矛盾統一より起る、実在は矛盾統一に由りて発展する、悪は宇宙を構成する一要素である。知と愛とは主客合一の作用、我が物に一致する作用、我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想臆断即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能くする。我々が物を愛するというのは自己をすてて他に一致するの謂、自他合一、知と愛とは同一の精神作用である。物を知るにはこれを愛し物を愛するのはこれを知る。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者と一致するが故に能く数理を明にする。美術家は能く自然を愛し自然に一致し自己を自然の中に没することに由りて甫めて自然の真を看破しうる。自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識、自己を忘れ自己以上の不可思議な力が独り堂々として働いている。この時が真の主客合一である。知即愛、愛即知である。宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。宗教上の事に当てはめて考えて見ると、主観は自力、客観は他力である。学問や道徳は個々の差別的現象の上に他力の光明に浴し、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接する。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。「具体的なるものから抽象的なるものへ」は西田哲学の本来的な志向であるが「善の研究」はその最も具体的なるものを「純粋経験」として捉えている。西田哲学の問題と発展は、この純粋経験の自己反省と深化と、それの論理的形成とにあった。実在は現実そのまま、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたもの、『善の研究』はそれ自体で既に成熟完結した作品、西田においては出発点、今後更に四十年に亙る巨人的な思索と労作がこれに後続し、然る後始めて西田哲学の壮大な体系が出来上る。
