自由とはまさしく他者の中で自分自身のもとにあること、自分に依存すること、自己決定者であること、である。自由は専ら精神の本質規定であり精神は自由であることによって初めて真の意味での精神たりうる。精神の実体は自己自身と関係することにある。精神は自立的に存在し自分自身を対象として持つ現実化された概念である。精神の内に存在する概念と客観の統一こそ精神の真理と自由を共に成り立たせる基盤である。へーゲルにあっては、精神は生身の人間の精神も芸術作品や宗教的形象の内に客体化された精神も学問の精神も神の精神をも意味する、人間精神といっても個人的な精神も家族の精神も社会的精神も歴史的精神をも含む。そういう広い精神世界の中で様々に現象形態の異なる精神が互いに響き合い自存しつつ浸透し融合しあうところに自由の壮大なドラマが成り立つ。そこでは精神世界全体が自由であると同時に個々の様々な精神にも十全の自由が与えられていた、他者と互いに自立した関係を取り結ぶ。個人と個人、個人と社会、個人と歴史、社会と歴史、社会と歴史、更には、芸術作品と宗教的形象、信仰と哲学思想、哲学と哲学のあいだにも成立すべきものであった。へーゲルの用語法では、個人は自由だ、というのと同じ資格で強い意味で、社会は自由、歴史は自由、芸術家の自由、宗教家の自由、哲学者の自由、と並んで、芸術の自由、宗教の自由、哲学の自由が存在しえた。茫々たる精神の世界が自由がある。歴史の具体的過程の中で自由が問題となるとき、何よりも先ず個人の自由に焦点が当てられる。歴史における自由は個人の自由を原点において成り立つ。自由の理念はキリスト教を通じて世界に齎され、個人は神の愛の対象であり目的である限りで無限の価値を持ち、精神としての神と絶対的な関係を結び、この精神を心の中に宿す使命を帯び、人間は元々最高の自由に達すべく運命づけられている。キリスト教は絶対的自由の宗教であり、人間は人間として無限かつ普遍の価値を持つ。
