色小姓にしたいような美貌である。
超優秀な遺伝子を残していくのが仕事・・だから女を抱き捲って沢山子供を作る。16歳丹田から中心核枠から全体全面まで俺を感じイメージする。個体として加速度的に上がり高まり進化成長発達発展し続けていた16歳も今枠だ。だから当時のように当時以上になれる筈だ。全部の過去の枠を集め合わせ積み重ねた今枠、過去の全部の枠が集まり合わさり積み重なった今枠、過去の全部の枠も集め集まり合わせ合わさり積み重ね重なった今枠、丹田から広がる正中線通る枠、力で16歳から広がる軌跡道程通る中心核に引っ張って持って行き来て、16歳丹田から生まれ始まり広がる軌跡道程正中線通る中心核枠である。独り物思いに耽る為、此処で瞑想を続ける。同一哲学の主客観化においても初めは客観的なるものが勝ち、それより次第に主観的なるものが強くなって行く。それが窮極に進み、根底から上ってきたものが神と合一する時（あたかも地からその表面に上ってきた植物が直ちに天と接するがごとくに）、特殊なるものが直ちに普遍のうちにある。実在的原理は超克され、観念的原理はこれより自由となり、これを自由なる製作の道具とする。両者合して形像するものとなる。これが生きた同一である。それは現勢的に実存するものとしての神の写像である。人と神との間に区別がある故、神が人のうちに自己を写す。この自己顕示において初めて神も（人間の精神のうちに）精神として自己を現す。自然の根底から押し揚げられてきた原理、人間がよって以て神より分かたれていた原理は、彼のうちの我性であるが、しかしそれは観念的原理との統一によって精神になる。我性はそのものとしては精神である。人間は我性的な特殊な（神より分かたれた）存在者としては精神である。〔その精神は両原理の結合であり〕かかる結合がまさに人格性をなす。我性は、精神であることによって、同時に被造物的なるものから超被造物的なるものへ揚げられる。それは、自己自身を完き自由のうちに視るような意志である。あらゆる自然の上にまたその外にある。自然のうちで光と暗い原理との統一以上に高揚したものとして、精神は光を超えている。かくして我性は、精神であることによって、両原理から自由である。善と悪の両原理。我意が実際に根元意志（光）に変異せられ、かくして（我意として）なお根底に留まりながら、自然を超える。精神は光と闇の上に支配する。我意は普遍的意志との同一性のうちにおいてのみあるところのものに特殊意志としてなろうと努めることができる。それが中心に留まる限りにおいてのみあり得るものに、（自然の静かな根底のうちに安らえる意志も、それが根底のうちに留まるというその故を以てまた普遍意志でもあるごとく）また周辺においても被造物としても、なろうと努めることができる。神の光は根底をそれの中心において捉えた。故に我性は、根底を通してその中心より上ってきたものである。精神が根底を克服するのは、中心より上ってその中心を貫く線上に留まっている限りである。根底の中心と自己の中心とが一つである時である。その時はそれは同時に神そのものの内にある。その線は神と神の自己定立たる「根底の中心」とを貫くものであるから。暗きかげは今まさに落ち来らんとす。潮の如く満来る夜の中に燃立つ夕栄はおもむろに消え行くなり。森林の声なき帷幕に名残の煌めきは、最終の告別にも譬うべく、万象はおぼろにかすみて静まり行くなり。物の形、物の色、物の響き、あらゆるものは理想化せられ、微細の形を照すべき光線の薄らぎ行けば、輪郭は気高く見えそめ、力ある影に偉大なる音調はますます雄勁に、色彩はいよいよその趣を美妙に複雑ならしむ。忍駒かけし忍び音の奏楽は一しおゆかしく聞かるるなり。一瞬間の奇蹟。現実的ならざるその時間。ここに至って空気には薫を生じ、風は溜息となる。神秘は即ち美術なれば、迫り来る黄昏には醜も忽ち化して美とはなるなり。いかなる輝きも煌めきも、消え行く光の妙には及ばじ。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ
