過去の全部の自分が集まり合わさったのが今の自分、過去の全部の枠が集まり合わさったのが今の枠である。そのものも俺も、中心核も枠も、16才も丹田も、何もかも全部同じ、全体という一つなのだ。規範学は全く規範的意識の上に立ったものである、規範学はこの意識の仮定の下に厳密に先験的に進み行く。科学的意識とは、これに反し、論理的規範によって構成せられた或仮定の下に、経験的事実を統一して行く。例えば、本体と性質とか、原因と結果とかいう如き論理的範疇に、何らかの経験的内容を当嵌め、これに因って連続的に変じ行く一々異質的なる直接経験を統一したものである。科学的知識はその形式においては規範的知識に基くが、その内容においては経験的事実に基くとも考えられる、経験の一面を現すものとも考えられる。自然科学が求めている知識の性質は同一種のもの、即ちそれぞれの物体現象について因果関係を支配する一般的法則を求めている。我々の直接経験は時々刻々に移り行く一々個性を帯びた異質的なる連続的発展である。一層完全なる一般化的見方に達するには更にこの如き個体的統一を分析して、一層単純なる要素の一般的関係に還元して見る。個体的統一はこれを更に単純なる要素の一般的関係に分解することによって、性質的差異を数量的関係に直すことによって、一般的見方を徹底せしむることができる。一般化的見方の上から一々の経験を統一し、翻ってまた一々これに適合することができる。すべての経験を同質的媒介者の上に写し、これを分析して、出来るだけ、単一なる要素の一般的関係に還元しようとする一般化的見方が進めば進む程、個々の経験に適合することができる。自然科学の見方は、連続的にして一々異質的な直接経験の事実を、同質的媒介者の上に写して、幾度にても繰返し得る個々独立の経験に分割し、かく改造せられたる経験を統一して一般的法則を見出そうとするいわゆる一般化的見方であるとするならば、歴史の見方は、個々の経験を連続的に結合して、一度だけの個性を現す個性化的見方というべきであろう。すべて我々の概念的知識というものは或仮定によって個々の経験的事実を統一したものである。我々の理解とは此の如き統一の作用をいう。我々が同一の仮定に立って経験を統一する所に同一の理解があり、同一真理の認識がある。我々の真の直感とか直接経験とかいうものは内面的生命の発展である。規範的意識即ち価値意識の内面的発展である。歴史の見方は此の如き意味において直感に合一するといえる。歴史は何処までも概念的知識である、或一つの限定せられたる価値即ち個性を中心として、これによって概念的に経験的事実を統一して行く。一つの経験は概念的に自然科学的関係においても歴史学的関係においても考えられる。自然科学においては、一般概念と個々の事物との関係は一般と特殊との関係であるが、歴史においては、個物を自己に従属せしめる全体である。我々の概念的知識というものは、すべて何らかの意味において、経験を反省し改造したものである。直接これらの経験を反省し統一して行くのに、自然科学的と歴史との両方面がある。自然科学は時間空間の上に分析せられた個々の事物を一般的法則の下に総括しようとするのに反し、歴史はかく反省せられた個々の経験を再び直接経験の内面的秩序に構成しようとする。自然科学は個々の経験的事実を一般的法則によって概括しようとするのであるが、歴史はこれに反しこれらの事物を一個性の発現として個性によって統一しようとする。思惟と創造とを全然独立の作用と見るのが普通の考方であるが、余の孝では動的一般者が己自身を発展する上においてその具体的全体の意識が想像であって、その部分的関係の意識が思惟である。動的一般者の発展の過程は先ず全体が含蓄的に現れ、これより分裂対峙の状態に移り、復、元の全体に還り来って、此処にその具体的真相を明にする。初め一種衝動的感情が起り、漸次その具体的全体が開展する。必ず先ず一種の情操が起り、それから種々の形象が発展してくる、而もその発展の過程は先ずいずれか一つの形象が現れ来り、これより或は前に或は後に発展して、遂にその全体を形成するに至る。すべて動的一般者の発展即ち我々の精神的創造力の作用は此の如き式を取る。真に無限なるものは己自身の中に変化の動機を蔵している。即ち己自身にて分化発展する。或体系が自分の中に自分を写し得る時に無限である。いわゆる自己代表的体系が無限である。自分の思想の対象となり得る自分の思想界は無限である。時間空間の無限という如きことも斯くの如き思惟の無限性によるのである。思惟の統一の真相は、自覚の統一においてのように、自己の中に自己を写す自己代表的体系の統一であって、即ち自己の中に変化の動機を蔵し己自身にて無限に進み行く動的統一である。我々の思惟作用というのは動的一般者が己自身を発展する過程であって、この発展の進行が即ち我々の理解となるのである。物は種々の関係に入って而も己自身を維持する所にその実在性を有する。真の実在はそれ自身に内面的必然を有る。精神的創造力、我々の精神が同一の働きを無限に繰り返し得ると自覚する力である。純論理的思惟の対象として或物即ち一者を挙げ、次ぎにこれに対して論理的必然に考えられる対立者即ち他者を加え、終りにこの二者を綜合する統一者を考え、これだけが我々の思惟其者の性質に基づく純論理的対象である。経験が統一の状態にある時が事実であって、或一つの経験が中心となって他を統一し行く時、即ち或一つの経験が己自身を発展し行く時、この中心的経験が法則と見做される。法則が幾多の事実を統一し一つの体系を成す。或一者が己自身を分化発展する創造作用、直感の世界は創造的進化？経験其者が内面的に己自身を発展する創造的法則でなければならぬ。全体より部分を統一して行く有機的進行である。夢の如き芸術的空想も我々の内面的生活の事実である。論理的推論というのはいつでも一般より特殊に行くことである。即ち一般的なるものが内より必然的に己自身を発展することである。論理的理解ということは一般的なる或物の内面的発展である、一種の創造作用である。自同律とは「すべて物は己自身に同一である」ということである。遍在と全能とをその内に包んでいる私に最も近い世界は、精神の永遠の共同体であり、その相互的影響、その交互的啓発であり、自由の高き調和である。この世界の務めは、私の本質の表面を変化し琢磨して、私に影響を及ぼすことにある。世界は我々の精神現象の発展によって完成せられる。
